ビバ!江戸
うんちく大石内蔵助はじめ忠臣蔵 四十七士は何故 火事装束だったか?

江戸時代、武士でも町人でも、町中を徒党を組んで歩いてはいけないとの幕府の禁令があったが、唯一 火消しだけは例外だったため。

トリビア「本所松坂町の吉良邸」は………二重のあやまり!

一つめは江戸時代、武家地には町名はつかなかった。ついたのは町人地のみ。二つめはこの事件後吉良邸は取りつぶされて、町地になったがその時に松坂町と名付けられた。討ち入りの際は松坂町は存在しない。


江戸の忠臣蔵

忠臣蔵関連地図

元禄14年(1701)3月14日
正午 前
赤穂藩主 浅野内匠頭(35)が江戸城松の廊下で高家 吉良上野介(61)に斬りつける
同日
午後6時
奥州一関藩 田村右京大夫 上屋敷(新橋)にて切腹
同夜 浅野家江戸菩提寺 泉岳寺に埋葬
        4月19日 赤穂藩 赤穂城(兵庫県赤穂市)明け渡し
        12月頃 吉良邸 呉服橋より本所回向院裏へ引っ越す
        12月12日 上野介 隠居し義周(よしちか:上杉家から迎えた養子)に家督を譲る
元禄15年(1702)7月18日 幕府の沙汰により、浅野大学(後継者;弟)によるお家再興は断たれる
これにより大石内蔵助(44)の討ち入りの意志が固まる
        12月14日
昼頃
上野介の在宅が確実であるとの情報を得る
        12月14日
午後4時〜午後8時頃

集合場所 堀部安兵衛 宅 本所林町五丁目
     杉野十平次 宅 徳右衛門町二丁目 に集合(いずれもアジト;吉良邸までは1km強)

        12月15日
午前4時40分頃

吉良邸へ向け出陣
(旧暦の12月15日は現在の1月31日にあたる)

        12月15日
午前5時頃
討ち入り開始
表門と裏門の二手に分かれ突入
        12月15日
午前6時頃
吉良上野介の首を取り本懐を遂げる
吉良側 16名討死 浪士側 全員無事
        12月15日
午前9時頃
旧江戸赤穂藩邸を通り、泉岳寺に到着
上野介の首を亡き主君の墓前に供え、仇討ちの報告をする
        12月15日
夜〜夜半過ぎ
浪士は4家に別れ預けられる 熊本藩細川家中屋敷 松山藩松平家中屋敷 長府藩毛利家上屋敷 岡崎藩水野家下屋敷
元禄16年(1703) 2月4日 幕府よりの判決で全員の切腹を申し渡され、即日執り行われる

 

松の廊下跡 浅野内匠頭終焉の地
江戸城本丸跡 左茂み外が蓮池濠。右側 本丸。 一之関藩田村家上屋敷の庭先で切腹。辞世 「風さそふ 花よりもなほ我はまた 春の名残をいかにとやせん」新橋4丁目

泉岳寺 浅野内匠頭の墓
泉岳寺 地下鉄浅草線 泉岳寺 泉岳寺内 浅野内匠頭長矩公之墓

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吉良上野介義央:旗本
禄高:4200石
領地:愛知県幡豆(はず)郡吉良町
赤穂藩と吉良領
・黄金堤の築堤
・饗庭(あいば)塩の生産
・新田の開発
等から領民には評価を受けている。
なお、赤穂塩は有名であるが、両者が塩を生産していることから、塩の製法を内匠頭が教えなかったことから上野介にねたまれたとされる説もある。

 

 

松の廊下
廊下とはいえ畳敷きであった。
幅;2間半 約4.5m
長さ;十八間 約33m
詳しくは「江戸城」参照

 








高家(こうけ)
江戸幕府 職名。
幕府の儀式・典礼および朝廷への使節・勅使の接待などをつかさどる。


「忠臣蔵」の由来
討ち入りから約50年後に、『仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)が竹本座で初演(人形浄瑠璃)され大反響を呼び、さらに歌舞伎化され広く知られるところとなる。
仮名手本はいろは47文字と47士をかけている。
忠臣蔵は忠臣な内蔵助の意。






宝永7年(1710)将軍 綱吉の逝去による大赦により安房(あわ;千葉県南部)に知行地を与えられ浅野家の再興はなる。
 

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