元禄14年(1701)3月14日
正午 前
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赤穂藩主 浅野内匠頭(35)が江戸城松の廊下で高家
吉良上野介(61)に斬りつける |
同日
午後6時 |
奥州一関藩 田村右京大夫 上屋敷(新橋)にて切腹
同夜 浅野家江戸菩提寺 泉岳寺に埋葬 |
4月19日 |
赤穂藩 赤穂城(兵庫県赤穂市)明け渡し |
12月頃 |
吉良邸 呉服橋より本所回向院裏へ引っ越す |
12月12日 |
上野介 隠居し義周(よしちか:上杉家から迎えた養子)に家督を譲る |
元禄15年(1702)7月18日 |
幕府の沙汰により、浅野大学(後継者;弟)によるお家再興は断たれる
これにより大石内蔵助(44)の討ち入りの意志が固まる |
12月14日
昼頃 |
上野介の在宅が確実であるとの情報を得る |
12月14日
午後4時〜午後8時頃 |
集合場所 堀部安兵衛 宅 本所林町五丁目
杉野十平次 宅 徳右衛門町二丁目 に集合(いずれもアジト;吉良邸までは1km強) |
12月15日
午前4時40分頃 |
吉良邸へ向け出陣
(旧暦の12月15日は現在の1月31日にあたる)
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12月15日
午前5時頃 |
討ち入り開始
表門と裏門の二手に分かれ突入 |
12月15日
午前6時頃 |
吉良上野介の首を取り本懐を遂げる
吉良側 16名討死 浪士側 全員無事 |
12月15日
午前9時頃 |
旧江戸赤穂藩邸を通り、泉岳寺に到着
上野介の首を亡き主君の墓前に供え、仇討ちの報告をする |
12月15日
夜〜夜半過ぎ |
浪士は4家に別れ預けられる 熊本藩細川家中屋敷 松山藩松平家中屋敷 長府藩毛利家上屋敷 岡崎藩水野家下屋敷 |
元禄16年(1703) 2月4日 |
幕府よりの判決で全員の切腹を申し渡され、即日執り行われる |