ビバ!江戸
江戸の長屋の井戸は………水道だった!
「水道の水で産湯(うぶゆ)を使った」のを自慢した江戸っ子だが、水道と言っても現在のような蛇口をひねると流れ出るものではなく、見た目には井戸のような施設であった。
江戸の町の水道は神田上水や玉川上水の水を市内より土中の樋(ひ;とい)により給水した。

江戸の水道(上水)

徳川家康は天正18年(1590)江戸入府の折、城造りや町造りとともにライフラインである水道の開設にも着手した。

江戸の六上水
名 称
完成年度 
水源・給水範囲
神田上水 天正18年(1590) 井の頭池(湧き水)
神田・日本橋・京橋
玉川上水 承応3年(1654) 多摩川
四谷・麹町・赤坂・京橋
本所上水 万治2年(1659) 瓦曽根溜井
本所(小名木川辺りまで)
青山上水 万治3年(1660) 玉川上水より分水
青山・赤坂・麻布・芝
三田上水 寛文4年(1664) 玉川上水より分水
三田・芝・金杉
千川上水 元禄9年(1696) 玉川上水より分水
白山御殿・湯島聖堂・寛永寺・浅草寺
上水井戸
長屋のページ参照
江戸六上水の期間 木樋
  木の樋 大きさは大小あった。
東京都水道歴史館 蔵

玉川上水と神田上水
水神社と陣屋門 石枡
水神社と陣屋門(右)玉川上水の取水所に置かれた陣屋(上水を管理する役所の出張所)門の内側は現在、東京都水道局羽村取水所となっている。

石枡(いします)麹町で発掘されたもので実際はこの上にも組まれており3.4mあった。手前と後ろの穴に樋が入った。
清水谷公園(千代田区紀尾井2)

※博物館画像等は当該博物館にお断りして掲載しています。
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(ひ;とい)
送水管木や石で造られた。

送水方法はすべて水源からの高低差を利用した自然流下 。又水は浄化することなくそのまま使用していた。

水銀(みずぎん)=水道料金
料金は水道量ではなかった。
武家:禄高に応じて
町方:地所の間口に応じて地主の負担(一間に付き11文/年)

本所上水(亀有上水)
明暦の大火後、両国橋が出来本所方面も開発され人口が増えたため造られた。瓦曽根溜井(埼玉県越谷)は元荒川をせきとめ造った溜池。

本所以下四上水の廃止理由
諸説あるが、幕府儒官 室鳩巣(むろきゅうそう)の献策「江戸に大火が多いのは地中の水道管が水気を吸い土を乾かし、それにより風も乾き火気を呼びやすい」というもの。また、享保頃より掘り抜き井戸の技術が上方より江戸に伝わり値段も安くなったこと、上水の維持管理の経費の負担など、真相は不明。
掘り抜き井戸
地下の岩盤の下まで掘り抜き良質の水を得るもの。
それまでは岩盤の手前までの水(中水:水質はよくない)を利用していた。特に埋め立て地の多い江戸では塩気が多く飲料には適さなかった。
水道橋
江戸市中には堀割(運河)が縦横に走っていたが、土中の樋はそれらにぶつかると川底をくぐらせたり (潜り樋)、川の上を掛け渡したり(掛樋)した。
水道橋の由来はその下流に立派な掛樋が渡されていたために、そのそばにあるところより名付けられた。
水舟・水売り
本所(墨田区)・深川(江東区)は井戸や水道の水質も悪いため、幕府の鑑札を受けた水舟業者が呉服橋門内銭瓶(ぜにがめ)橋・一石橋の左右・竜閑橋下で濠に落ちる神田・玉川上水の余り水を舟に積み運び、水売りが天秤棒で売り歩いた。
枡(ます)
枡は木や石で作られ樋の途中に設置された。枡の用途は、一方向から来たものを2方向に分け水質や水量のチェック「どろだめ」として砂やどろをここで除断水や水量の調整 等々を行った。
陣屋
水番人が水量調整やあくたどめにかかったごみの処理等を行った。なお、江戸外ではあったがこういった重要な施設は幕府の管理下にあり、役人がやってきては指図した。

 

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