ビバ!江戸
一石橋の橋名の由来は…駄洒落で出来た?

一石橋の北詰に幕府金座御用の後藤庄三郎、南詰には御用呉服師の後藤縫殿介の屋敷があった。つまり、後藤(五斗)と後藤(五斗)で一石という洒落。ただし諸説あり。一石=十斗

現在の蔵前橋が黄色く塗装されているのは…江戸時代に由来している

そもそも蔵前の蔵とは、江戸時代の幕府の御米蔵のことを指している。隅田川西岸、現在の両国橋より上流450mから蔵前橋より上流250m辺りまでの地域(PDFファイル参照)に広大な米蔵が存在した。そこで黄金色に輝く稲穂にちなんで、黄色く塗装されたとされる。

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江戸の橋

江戸の橋の地図(PDFファイル)※拡大してご覧ください。

隅田川東側(北から) ※橋・道路・川からの距離はその中心部分から測っています、数値はおおよそです。〔 〕は明治以降の名称
川名 橋名 位置 内容
源森川 源森橋 F2 現源森橋より西方の隅田川からの入口辺り(現在の枕橋辺り)に架かる
常陸水戸藩水戸中納言邸前と中之郷瓦町に架かる
北十間川 押上橋 G2 現在は京成橋として同所に架かる
押上村に架かる
北十間川 境橋 H3 現在も同名橋が同所に架かる
葛西領請地村・小村井村と柳島境町・亀戸境町に架かる
十間川
(天神川)
又兵衛橋
(柳島橋)
H2 現在も柳島橋として同所に架かる 十間川は現横十間川のこと
法性寺・柳島村・越後村松藩堀丹波守邸前に架かる 
十間川
(天神川)
天神橋 H3 亀戸天神通り(蔵前橋通り)との交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる 柳島町・信濃須坂藩堀長門守邸前と亀戸町に架かる
十間川
(南十間川)
旅所橋
(たびしょ)
H4 竪川と交差する北(現旅所橋より南56m辺り)に架かる
深川北松代町三丁目と四丁目に架かる
十間川
(南十間川)
清水橋 H4 竪川と交差する南に架かる 現清水橋より北64m辺りに架かる 火除地と深川南松代町に架かる
十間川
(南十間川)
大島橋 H5 小名木川と交差する北に架かる 現大島橋より南140m辺りに架かる 深川上大島町に架かる
十間川 富士見橋 G6 平野川に合流手前に架かる 現旧富士見橋より西24m辺りに架かる 肥後熊本藩細川越中守邸前と深川塩浜町に架かる
大横川 業平橋
(なりひら)
G2 現浅草通りとの交点に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる 業平天満宮方面と中之郷村、須崎村、小梅村入会に架かる
大横川 法恩寺橋 G3 現蔵前橋通りとの交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
本所新坂町・本所清水町と南本所出村町・深川元町代地に架かる
大横川 長崎橋
(北中之橋)
G3 南割下水と交差する北に架かる
本所長岡町・本所長崎町と浦賀奉行土岐豊前守邸前・小普請組支配大島丹波守邸前に架かる
大横川 北辻橋 G4 竪川と交差する北に架かる
本所花町と柳原一丁目に架かる 別称撞木(しゅもく)橋 撞木とは釣鐘をつく棒のことで、近所に時之鐘があったことより
大横川 南辻橋 G4 竪川と交差する南に架かる
本所菊川町一丁目と柳原町三丁目に架かる
大横川 菊川橋 G4 現新大橋通りとの交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
本所菊川町三・四丁目と丹後田辺藩牧野豊前守邸前に架かる
大横川 猿江橋 G5 小名木川と交差する北に架かる 現猿江橋より南150m辺りに架かる 深川西町と深川猿江町に架かる
大横川 扇橋 G5 小名木川と交差する南に架かる 現扇橋より北180m辺りに架かる 深川扇橋町に架かる
大横川 大栄橋 G6 仙台堀と交差する北に架かる 現大栄橋より北48m辺りに架かる
深川島崎町続町・深川久永町二丁目と深川石島町に架かる
〔石原町入堀〕 石原橋 F3 堀は御竹蔵(幕府の資材保管場所のち米蔵)北端の排水用水路の入口に架かる 南本所石原町と幕臣邸前に架かる
〔横網町入堀〕 御蔵橋 F3 隅田川から御米蔵に通じていた堀の入口に架かる
御奏者番丹後宮津藩松平伯耆守邸前と蝦夷福山藩松前伊豆守邸前の間に架かる
〔藤代町入堀〕 駒留橋 E4 隅田川の両国橋北側辺りから東へ通じる堀に架かる
本所藤代町と両国東広小路に架かる
竪川 一ツ目之橋 F4 現在は一之橋として同所に架かる
南本所元町・本所相生町一丁目と本所弁天前に架かる
竪川 二ツ目之橋 F4 現清澄通りとの交点に架かる 現在は二之橋として同所に架かる 本所相生町四・五丁目と松井町二丁目・本所林町一丁目に架かる
竪川 三ツ目之橋 G4 現三ツ目通りとの交点に架かる 現在は三之橋として同所に架かる 本所緑町五丁目と本所徳右衛門町一・二丁目に架かる
竪川 新辻橋 G4 大横川と交差する東に架かる
柳原町一丁目と柳原町三丁目に架かる
竪川 四ツ目之橋 G4 現四ツ目通りとの交点に架かる
茅場町三丁目・深川北松代町一丁目と火除地に架かる
六間堀 松井橋 F4 竪川から分流する入口に架かる 現千歳橋を南へ最初の交差点の東20m辺りに架かる 別称俎(まないた)橋
本所松井町一丁目と本所松井町二丁目に架かる
六間堀 山城橋 F4 現千歳橋を南へ二つ目の交差点の東18m辺りに架かる 
本所松井町二丁目と本所松井町一丁目に架かる
六間堀 北之橋 F4/5 現新大橋通りとの交点に架かる
深川六間堀町と深川南六間堀町に架かる
六間堀 中橋 F5 猿子橋より北70m辺りに架かる
深川六間堀町・御籾蔵と深川南六間堀町に架かる 
六間堀 猿子橋 F5 現深川芭蕉通りとの交点に架かる
御籾蔵・深川六間堀町と深川南六間堀町に架かる
五間堀 弥勒橋 F4 現清澄通りとの交点に架かる 弥勒寺橋とも
対馬府中藩宗対馬守邸前・弥勒寺門前と深川北森下町に架かる
五間堀 伊予橋 F4 現新大橋通りとの交点に架かる
深川北森下町と幕臣邸前に架かる
小名木川 万年橋 F5 現萬年橋より西40m辺り
摂津尼崎藩松平遠江守邸前と御船蔵に架かる
小名木川 高橋 F5 現清澄通りとの交点に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
深川常盤町一丁目・寺社奉行遠州掛川藩太田摂津守邸前と深川海辺大工町に架かる
小名木川 新高橋 G5 大横川と交差する西に架かる
深川西町と深川扇橋町に架かる
仙台堀 上之橋 F5 隅田川より現横十間川へと合流する堀の隅田川入口部分に架かる
陸奥仙台藩松平陸奥守邸前と深川佐賀町に架かる この仙台藩蔵屋敷があったことより堀名がついた
仙台堀 海辺橋
(正覚寺橋)

F6 現清澄通りとの交点に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
南本所石原町代地(伊勢崎町)・深川西平野町と深川万年町二丁目・正覚寺前に架かる
仙台堀 亀久橋 F6 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
深川東平野町と深川亀久町・深川大和町に架かる 
仙台堀 要橋 G6 現三ツ目通り末広橋より西70m辺りに架かる 現要橋とは位置が違う 深川吉永町之内材木置場と深川扇町に架かる
仙台堀 崎川橋 G6 大横川と交差する西に架かる 現崎川橋より東62m辺りに架かる 深川久永町二丁目と深川茂森町に架かる
亥之堀
〔福富川〕
富島橋 G6 現三ツ目通りより東25m辺りに架かる 
深川三好町と深川吉永町之内材木置場に架かる
亥之堀
〔福富川〕
福永橋 G6 現大横川から西へ分流する入口に架かる
深川島崎町と深川島崎町続町に架かる
〔福富川支川〕 青海橋
(あおみ)
G6 福富川支川から南へ流れて仙台堀と合流する手前に架かる
深川吉永町之内材木置場と深川久永町一丁目に架かる
仙台堀支堀南 相生橋 F5 現仙台堀に架かる清澄橋位置よりやや南の位置から南に流れる堀の入口に架かる 深川永堀町と深川万年町一丁目に架かる
仙台堀支堀南 丸太橋 F6 支堀が南下して油堀に合流する手前に架かる
深川材木町と深川富久町に架かる
仙台堀支堀北 吉岡橋 F6 現平野二・三丁目の間を流れる堀の仙台堀からの入口の橋
深川東平野町と深川吉永町之内材木置場に架かる
仙台堀支堀北 相掛自分橋 F6 福富川と接した北に架かる
深川山本町と深川三好町に架かる
平野川 相掛自分橋 G6 現葛西橋通り上の茂森橋より南90m辺りに架かる
深川茂森町と肥後熊本藩細川越中守邸前に架かる
平野川 江島橋 G7 深川木場と洲崎神社方面に架かる
深川木場町と洲崎弁財天門前に架かる
平野川 平野橋 F7 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
深川入船町と深川洲崎に架かる
木場堀 幾世橋 G6 現葛西橋通りより南80m/三ツ目通りより東110m辺りに架かる 現木場公園内 深川扇町と深川茂森町に架かる
木場堀 亀井橋 G6 現葛西橋通りより南96m/三ツ目通りより東20m辺りに架かる 現木場公園内 深川扇町と深川木場町に架かる
木場堀 築島橋 G6 油堀(十五間川)より木場堀に注ぐ部分南側に架かる
深川島田町と深川木場町に架かる
木場堀 金岡橋 F7 木場堀南端と平野川がつながる部分に架かる 他の資料では金剛橋 深川入船町と深川木場町に架かる
三十間川 大和橋 F6 三十間川とは現平久川のこと 現葛西橋通りより南34m辺りに架かる 深川大和町と長門萩藩松平大膳大夫邸に架かる
三十間川 汐見橋 F6 現永代通りとの交点に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる 三十三間堂町・深川入船町と深川入船町に架かる
〔中の川/
入船町堀〕

入船橋 F6 中の川は三十間川と木場堀を結ぶ 現江東区木場二丁目11番に架かる 深川島田町と深川入船町に架かる
油堀支堀 小川橋 F6 仙台堀に合流する手前に架かる
深川蛤町に架かる
油堀支堀 江川橋 F6 油堀から仙台堀へ向かう入口に架かる
深川平野町と佐賀町代地に架かる
油堀支堀
(黒江川)
黒江橋 F6 油堀から大島川へ向かう入口に架かる
深川黒江町に架かる
油堀支堀
(黒江川)
久中橋 F6 本流から西へ分れる(北黒江川)手前に架かる
深川黒江町に架かる
油堀支堀
(黒江川)
八幡橋 F6 現永代通りとの交点に架かる
深川黒江町代地・深川北川町と深川黒江町に架かる
油堀支堀
(黒江川)
大島橋 E6 堀が大島川に通じる手前に架かる
深川中島町と深川大島町に架かる
油堀支堀
(北黒江川)
奥川橋 F6 現萬徳院の南側を通る道路との交点に架かる
深川奥川町と坂本町代地・深川黒江町に架かる
油堀支堀
(北黒江川)
坂田橋 F6 油堀西横川から西70m辺りに架かる
深川伊沢町と深川蛤町三丁目代地に架かる
油堀支堀 亥ノ口橋 F6 油堀から南へ入る堀留の入口に架かる 堀は現清澄通りの一部となっている 山本町入堀とも
永代寺門前仲町と永代寺門前山本町に架かる
油堀支堀 小橋 F6 現永代通りと清澄通り交差地点辺りで堀留る北50m辺りに架かる 永代寺門前仲町と永代寺門前山本町に架かる
〔中ノ堀〕 中之橋 E5 隅田川から分流する入口に架かる
深川佐賀町に架かる
〔中ノ堀〕 田中橋 F5 現東神(とうじん)橋より南20m辺りに架かる
中川町と富田町に架かる
〔中ノ堀〕 豊島橋 F6 油堀西横川に合流する手前に架かる
西永代町と深川堀川町に架かる
油堀西横川 松永橋 F5 現松永橋より38m仙台堀寄りに架かる
今川町と永堀町に架かる
油堀西横川 元木橋 F6 油堀と交差する北に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる深川堀川町と深川材木町に架かる
油堀西横川 緑橋 F6 油堀と交差する南に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる深川加賀町と深川一色町に架かる
油堀西横川 福島橋 E6 現永代通りとの交点 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
深川富吉町・深川諸町と深川北川町・深川中島町に架かる 
油堀西横川 巽橋 E6 大島川に合流する手前に架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる 深川相川町と深川中島町に架かる
油堀 下之橋 E6 隅田川から分流する入口に架かる
深川佐賀町に架かる
油堀 千鳥橋 F6 油堀西横川と交差する西に架かる
深川堀川町と深川加賀町に架かる
油堀 富岡橋 F6 油堀支堀や黒江川と交差する地点より北80m辺りに架かる
近くに法乗院閻魔堂があるところから閻魔堂橋ともいう
深川一色町・深川黒江町と深川平野町に架かる
油堀 水居橋 F6 三十間川(現平久川)と交差する西側に架かる
深川大和町と永代寺門前東仲町に架かる 
蛤町堀 外記殿橋 F6 蛤町堀は大島川から黒江川に通じる堀で大島川からの入口に架かる 現臨海公園内
深川蛤町上二丁目・深川大島町と深川蛤町二丁目に架かる
蛤町堀 松島橋 F6 現葛西橋通りが永代通りと接する地点より南南東80m辺り 
深川蛤町と深川蛤町・深川蛤町上二丁目に架かる
大島川 蓬莱橋 F6 現巴橋より東38m辺りに架かる
永代寺門前町と深川佃町に架かる
大島川 黒船橋 F6 現黒船橋(清澄通り)より東56m辺りに架かる
深川蛤町一丁目と黒船稲荷神社前に架かる
大島川 三蔵橋 F6 現越中島橋より西70m辺りに架かる
深川大島町に架かる
大島川 武家方一手橋 E6 隅田川に注ぐ手前、現練兵衛橋とほぼ同所に架かる
深川中島町と武蔵忍藩松平下総守邸に架かる

隅田川西側(北から)
川名 橋名 位置 内容
山谷堀 新鳥越橋 F1

現吉野通りの南端西側に架かる
山谷堀の南岸には、日本堤が築かれて荒川の洪水が浅草方面に及ぶのを防いでいた 明治以降は吉野橋
浅草新鳥越町一丁目に架かる
 

山谷堀 今戸橋 F1 隅田川に合流する手前に架かる 今戸橋から吉原遊郭までを、俗に土手八丁とも呼んでいた 山谷堀最下流の橋
慶養寺・浅草今戸町と浅草金竜山下瓦町浅草寺領に架かる
新堀川 菊屋橋 E2 現浅草通りとの交点 菊屋橋交差点は合羽橋道具街の入口
行安寺・正行寺と浅草本願寺・宗円寺とに架かる 寺院組合橋
新堀川
幽霊橋 E3 現蔵前橋通りとの交点辺りに架かる
浅草新旅籠町と測量所天文屋敷に架かる 別称天文橋
忍川 寛橋
(ゆるや) 
D2 アメ横通りのアメ横センタービル前辺り 橋名は上野寛永寺の寛の字をとったとも
仁王門前町・下谷町一丁目と常楽院門前・上野町二丁目に架か
忍川 三儀橋 D2 現昭和通りより西88m/春日通より北100m辺り
御徒大縄地に架かる
忍川 一枚橋 D2 現昭和通りとの交点辺りに架かる
御徒大縄地に架かる
鳥越川 高橋 E3 三味線堀から鳥越川となる最初の橋 現清洲橋通り上
幕臣邸に架かる 近辺の武家の組合持ちの橋 三味線堀との位置関係により転軫(てんじん)橋とも 転軫:三味線の頭部にある弦を巻き付ける棒
鳥越川 甚内橋 E3 現蔵前橋通りの浅草橋三丁目交差点より南方面最初の交差点から東18m辺りに架かる
浅草元鳥越町と御書院番小出兵庫邸前・浅草猿屋町に架かる
鳥越川 稲荷橋 E3 加賀美久米森稲荷神社のある交差点やや西辺りに架かる
測量所天文屋敷と上記稲荷社・御改正会所に架かる
鳥越川 鳥越橋 E3 現江戸通り(奥州街道)との交点辺りに架かる 二つの橋が並んで架かる 地図では天王橋とも記されている
浅草御蔵前片町・御蔵外御構地所と浅草天王町・御蔵外御構地所に架かる
江戸川 江戸川橋 A2 現在も同名橋がやや西に架かる
小日向水道町と関口水道町に架かる
江戸川 石切橋 A2 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
小日向水道町と牛込水道町に架かる
江戸川 中橋 B2 現在は中之橋として同所に架かる
幕臣邸に架かる
江戸川 竜慶橋 B3 現隆慶橋よりやや北に架かる
幕臣邸に架かる
江戸川 船河原橋 B3 現外堀通りとの交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
幕臣邸に架かる 
神田川 水道橋 C3 現水道橋より東40mに架かる
幕臣邸に架かる
神田川 昌平橋 D3 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
火除広道と八辻原(火除地)に架かる
神田川 筋違橋
(すじかい)
D3 現万世橋より北西100m弱辺りに架かる 現在は橋はない
火除広道と筋違御門に架かる
神田川 和泉橋 D4 現昭和通りとの交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
火除広道・神田佐久間町二丁目と柳原通りに架かる
神田川 新シ橋 E4 現清洲橋通りとの交点に架かる 現在は美倉橋の名で同所に架かる
神田佐久間町四丁目蔵地・神田久右衛門町一丁目蔵地と柳原通りに架かる
神田川 浅草橋 E4 現江戸通り(奥州街道)との交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
本郷六丁目代地・浅草茅町一丁目と馬喰町四丁目に架かる
神田川 柳橋 E4 神田川が隅田川に注ぐ最下流の橋 現在も同名橋が同所に架かる この柳橋の岸辺は江戸時代には大川の船遊びの拠点として、吉原通いの船、向島通いの船などを仕立てる船宿が多くできて繁盛した。
浅草下平右衛門町と下柳原同朋町・同朋町新地に架かる
藍染川 藍染橋 D4 岩本町一丁目交差点より西北西105m辺りに架かる
松下町と幕臣邸前に架かる 他の資料によると道有屋敷と紺屋町三丁目に架かる
藍染川 弁慶橋 D4 岩本町一丁目交差点より北北東120m辺りに架かる
松枝町・横山町三丁目代地と岩本町・元岩井町に架かる
飯田川 蜻橋
(こおろぎ)
C3 現日本橋川の俎橋より北200m辺りに架かる
幕臣邸と御側衆渡辺能登守・元飯田町に架かる
飯田川
(まないた)
C4 現靖国通りとの交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
御書院番頭白須甲斐守邸前と九段坂下に架かる
龍閑川 龍閑橋 D4 外濠から北東へ流れる堀の入口に架かる 千代田区と中央区の区境が川筋
鎌倉河岸・龍閑町と本銀(ほんしろがね)町一丁目に架かる
龍閑川 乞食橋 D4 現在のJR線下東寄り辺りに架かる 明治以降は白旗橋 
本銀町四軒屋敷と本銀町一丁目に架かる
龍閑川 西中之橋 D4 JR線より北東108m辺りに架かる
新革屋町と本銀町一丁目・二丁目に架かる
龍閑川 今川橋 D4 現中央通りとの交点に架かる
元乗物町と本銀町二丁目・三丁目に架かる
龍閑川 東中之橋 D4 現中央通りより北東140m辺りに架かる
佐柄木町蔵地と本銀町三丁目・四丁目に架かる
龍閑川 地蔵橋 D4 現昭和通り 上は首都高速1号線との交点東寄り辺りに架かる 現在地蔵橋児童遊園がある
紺屋町二丁目・幸伯屋敷と本銀町四丁目・大伝馬塩町に架かる
龍閑川 持合橋
〔火除橋〕
D4 現人形町通りより南西100m辺りに架かる
紺屋町三丁目上納地・九軒町上納地と大伝馬塩町・牢屋敷に架かる
龍閑川 九道橋
(くどう)
D4 現人形町通りとの交点辺りに架かる
九軒町・小伝馬上町と牢屋敷・小伝馬上町に架かる
龍閑川 甚兵衛橋 E4 現人形町通りより北東120m辺りに架かる
小伝馬上町代地・柳原岩井町上納地と小伝馬上町・亀井町に架かる 橋の南東は旧吉原遊郭へ通じる大門(おおもん)通り
龍閑川 幽霊橋
〔玉出橋〕
E4 竹森神社より西北西20m辺りに架かる 浜町堀との合流手前
柳原岩井町上納地と亀井町に架かる
浜町堀 川口橋 E5 現浜町ランプ辺りに架かる
清水御屋形邸前と寺社奉行陸奥磐城平藩安藤長門守邸前に架か
浜町堀 組合橋

E5 現新大橋通りとの交点辺りに架かる
美濃加納藩永井肥前守邸前と上野館林藩秋元但馬守邸前に架か
浜町堀 小川橋 E4/5 現久松警察署前交差点南側辺りに架かる
難波町と幕臣邸前に架かる
浜町堀 高砂橋
(たかさご)
E4 現久松警察署前交差点より北西84m辺りに架かる
高砂町と御奏者番信濃小諸藩牧野遠江守邸前に架かる
浜町堀 栄橋 E4 現東日本橋三丁目中央通りより南東140m辺りに架かる
富沢町と久松町に架かる
浜町堀 千鳥橋 E4 現東日本橋三丁目中央通りとの交点辺りに架かる
新大坂町と橘町二丁目に架かる
浜町堀 汐見橋 E4 現共栄会通りを南に延長した 交点辺りに架かる
通油町・新大坂町と通塩町・橘町一丁目に架かる 
浜町堀 緑橋 E4 現横山町大通りを南に延長した交点辺りに架かる
通油町と通塩町に架かる
浜町堀支流 入江橋 E5 この支流は竃(へっつい)河岸ともいわれる。この辺りに元吉原があった頃、廓の周りを囲んでいた水路の一部がこの支流。浜町堀からの入口に架かる 現久松警察署前交差点より南東100m辺りに架かる 難波町裏河岸と幕臣邸前に架かる
〔箱崎川〕 永久橋 E5 幕末地図では箱崎川の名称は見あたらず、他の名称もない 現在の首都高速6号向島線が川筋
現永久稲荷の北西側、高速道路の辺りに架かる
上野伊勢崎藩酒井下野守邸前と箱崎町二丁目に架かる
〔箱崎川〕 崩橋
(箱崎橋)
E5 首都高速箱崎出入口辺りに架かる  首都高速6号下
小網町三丁目と箱崎町一丁目に架かる
道三堀 道三橋 D5 現永代通り上大手町駅前交差点より北東80m辺りに架かる 
この堀が掘られた天正十八(1590)年ころ今大路道三という将軍の侍医の屋敷が堀の南側にがあったところから名がつく
寺社奉行遠江掛川藩太田摂津守邸前と肥後熊本藩細川越中守邸前に架かる
道三堀 銭瓶橋 D5 現一石橋より西北西140m辺りに架かる
御側衆夏目左近将監邸前と呉服橋御門に架かる
〔日本橋川〕 常盤橋 D5 日本橋川という川名は昭和三九(1964)年の河川法改正法でついたもの。幕末地図では御堀とある。
現在も同名橋がほぼ同所に架かる
常盤橋御門と名主奈良屋市右衛門館前に架かる
〔日本橋川〕 一石橋 D5 一石橋より湊橋までは特に川・堀の名称は見当たらない。
現在も同名橋が同所に架かる 北鞘町と西河岸町に架かる
〔日本橋川〕 日本橋 D5 いわずと知れた江戸のランドマーク 江戸五街道の起点
室町一丁目と通(とおり)一丁目に架かる
〔日本橋川〕 江戸橋 D5 現江戸橋より東80m辺りにかる
本船町と江戸橋広小路に架かる
霊岸島新堀
〔日本橋川〕
湊橋 E5 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
冨島町一丁目・南新堀一丁目と箱崎町一丁目に架かる
霊岸島新堀
〔日本橋川〕
豊海橋 E6 現豊海橋より北東50m辺りに架かる
北新堀町と南新堀二丁目に架かる 別称乙女橋
東堀留川 万橋
(よろず)
E5 現堀留公園北端より北20m辺りに架かる 旧名堺橋
堀江町一丁目・二丁目と新材木町に架かる 俗称和国橋
東堀留川 親仁橋
(親父橋)
E5 現人形町交差点より南西に下る通りとの交点辺りに架かる
照降(てりふり)町と堀江六軒町に架かる
橋名は通称「おやじ」といわれた吉原遊郭の創始者庄司甚右衛門が架けた橋のため
東堀留川 思案橋 E5 現小網神社より西南西50m辺りに架かる
小網町一丁目と小網町二丁目に架かる 古称わざくれ橋
西堀留川
(伊勢町堀)
雲母橋
(きらず)
D5 現中央区日本橋室町二丁目と日本橋本町二丁目の間の通りと日本橋本町二丁目3番と4番の間の通りが交差するやや南寄りに架かる 本町三丁目・四丁目と瀬戸物町に架かる 別称益田橋
西堀留川
(伊勢町堀)
道浄橋 D5 現昭和通りとの交点やや東寄りに架かる
本町四丁目・堀留町一丁目と伊勢町に架かる
西堀留川
(伊勢町堀)
中之橋 D5 現日本橋小舟町郵便局南側交差点より南40m辺りに架かる
伊勢町と小舟町一丁目・二丁目に架かる
西堀留川
(伊勢町堀)

荒布橋
(あらめ)
E5 現小舟町交差点より西南西40m辺りに架かる
本船町と照降町に架かる 荒和布橋とも
新川 一ノ橋 E6 現永代通り 新川一丁目交差点より南西85m辺りに架かる
霊岸島町と冨島町一丁目・霊岸島町に架かる
新川は酒問屋が集中している川岸として知られる この橋の北詰には豪商河村瑞軒の屋敷があった
新川 二ノ橋 E6 現永代通り 新川一丁目交差点より南へ一つ目の信号機を右折して最初の交差点を越えたすぐ右側辺りに架かる
銀町一・二丁目と新四日市町二・三丁目に架かる
新川 三ノ橋 E6 現中央区新川一丁目29番を通る細い道が川筋で南下して新川公園に突き当たる手前辺りに架かる
銀町二丁目と北新堀大川端町に架かる
〔亀島川〕 霊岸橋 E5 現霊岸橋より北東75m辺りに架かる
南茅場町と冨島町一丁目に架かる
〔亀島川〕 亀島橋 E6 現亀島橋よりやや北側に架かる
与作屋敷跡地前と川口町に架かる 
〔亀島川〕 高橋 E6 現高橋より下流60m辺りに架かる
本八丁堀五丁目と東湊町一丁目に架かる 川口に近く船舶の出入りが頻繁だったので橋台の高い橋をかけたのが橋名由来
楓川 海賊橋 D5 首都高速都心環状線が川筋 現永代通りより北120m辺りを通る道との交点辺りに架かる
本材木町一丁目と坂本町一丁目に架かる 明治以降海運橋
楓川 新場橋 D5 現永代通りより南150m辺りに架かる
本材木町三丁目と肥後熊本藩細川越中守邸前に架かる
楓川 越中橋 D6 現八重洲通りより南50m辺りに架かる
本材木町五丁目と伊勢桑名藩松平越中守邸前に架かる
明治以降久安橋
楓川 松幡橋
(まつば)
D6 現鍛冶橋通りより北65m辺りに架かる
本材木町七丁目と松屋町に架かる まつはん橋とも
楓川 弾正橋 D6 現鍛冶橋通りより南70m辺りに架かる
本材木町八丁目と本八丁堀一丁目に架かる 古称戸越(とごえ)橋
御堀
〔外濠川〕

呉服橋 D5 現永代通りとの交点に架かる
呉服橋御門と呉服町に架かる
御堀
〔外濠川〕
鍛冶橋 D6 現鍛冶橋通りとのほぼ交点に架かる
鍛冶橋御門と五郎兵衛町に架かる
八丁堀 中ノ橋 D6 現桜川公園内 新大橋通りより西65m辺りに架かる
本八丁堀四・三丁目と南八丁堀五・三丁目に架かる 
八丁堀 稲荷橋 E6 現鉄砲洲通りとの交点に架かる
本八丁堀五丁目と南八丁堀五丁目に架かる
京橋川 比丘尼橋 D6 京橋川は東京高速道路が川筋 現外堀通りとの交点に架かる
北紺屋町と南紺屋町に架かる
京橋川 中之橋 D6 現中央通りより川筋を北西へ130m辺りに架かる
北紺屋町と南紺屋町に架かる
京橋川 京橋 D6 現中央通りとの交点に架かる
南伝馬町三丁目と新両替町一丁目に架かる 
京橋川 三年橋 D6 現昭和通りより川筋を北西へ70m辺りに架かる
炭町と京橋金六町・白魚屋敷前に架かる
明治四(1871)年炭屋橋に改称
京橋川 白魚橋
(牛草橋)
D6 現昭和通りより川筋を南東へ65m辺りに架かる
本材木町八丁目と白魚屋敷前に架かる
鉄砲洲川 見当橋
(みとめ)
E7 現佃大橋交差点辺りに架かる
摂津尼崎藩松平遠江守邸前・老中越後村上藩内藤紀伊守邸前と船松町一丁目・肥後熊本新田藩細川能登守邸前に架かる
築地川 相引橋 D6 現中央区役所前と福富二丁目方面に架かる
伊予吉田藩伊達若狭守邸前・近江膳所藩本多隠岐守邸前と土佐高知藩松平土佐守邸前に架かる
築地川 軽子橋 D6 現入船橋交差点より南東80m、築地川公園の北側に架かる
幕臣邸前と豊後岡藩中川修理大夫邸前に架かる
築地川 堺橋
〔境橋〕
D7 現あかつき公園の北端辺りに架かる
遠江相良藩田沼玄蕃頭邸前と幕臣邸前に架かる
築地川 明石橋 D7 現あかつき公園南端の交差点南側辺りに架かる 別称「寒さ橋」地図の三角形の堀は明石堀といい現在はあかつき公園となっている 南飯田町と明石町に架かる
築地川 備前橋 D7 現築地川公園の西南端辺りに架かる
備前岡山藩松平内蔵頭(くらのかみ)邸前と幕臣邸前に架かる橋の北側に備前岡山藩があったのが橋名由来
築地川 本願寺橋 D7 現波除稲荷前より波除通り上北105m辺りに架かる
小田原橋、門跡橋とも
築地本願寺と南小田原町一丁目に架かる 
築地川 安芸橋 D7 現波除稲荷前通りより南西83m辺りに架かる
講武所と一橋刑部卿邸・安芸広島藩松平安芸守邸に架かる
築地川 万年橋 D7 現晴海通りとの交点に架かる
現在も万年橋は同所に架かる 下は高速道
肥後熊本藩細川越中守邸前・釆女ヶ原馬場と幕臣邸前に架かる
築地川 二之橋 D7 現在は釆女(うねめ)橋の名で同所に架かる 別称「釆女橋」下は高速道
信濃高島藩諏訪因幡守邸前・陸奥棚倉藩松平周防守邸前と幕臣邸前に架かる
築地川 三之橋 D7 現築地保育園北端辺りに架かる
幕臣邸前と伊勢長島藩増山河内守邸前に架かる
築地川 仙台橋 D7 現築地川千代橋公園から高速道路を南に80m辺りに架かる
幕臣邸前と幕臣邸前に架かる
三十間堀 真福寺橋 D6 現中央区銀座一丁目26番辺りに架かる
白魚屋敷と大富町に架かる 京橋川の白魚橋、楓川の弾正橋と相接して三つ橋と称されていた
三十間堀 紀伊国橋 D6 現銀座柳通りとの交点に架かる
三十間堀町一・二丁目と松村町に架かる
三十間堀 三原橋 D6 現晴海通りとの交点に架かる
三十間堀町四・五丁目と木挽町三・四丁目に架かる
三十間堀 木挽橋 D7 現みゆき通りとの交点に架かる
三十間堀町五・六丁目と木挽町四・五丁目に架かる
三十間堀橋、一之橋、五丁目橋とも
御堀
〔汐留川〕
新シ橋 C6 現西新橋一丁目交差点より通りを北へ90m辺りに架かる
信濃松代藩真田信濃守邸前・石見津和野藩亀井隠岐守邸前と御庭番之者御用屋敷前・鶴見七左衛門御馬預邸前に架かる
御堀
〔汐留川〕
幸橋 C7 現第一ホテル東京とJR線の間辺りに架かる
幸橋御門と二葉町に架かる 古くは御成り橋と称し、将軍が芝増上寺参詣の折に通る橋であった
御堀
〔汐留川〕
難波橋 C7 現並木通り(を南へ延長した)とのほぼ交点に架かる
山王町・南大坂町と芝口一丁目に架かる 別称涙橋
御堀
〔汐留川〕
芝口橋
新橋
C7 現中央通りとの交点に架かる
芝口北紺屋町・金六町と芝口一丁目西側・東側に架かる
御堀
〔汐留川〕
汐留橋 C7 現東京高速度道路新橋出口を下り切った辺りに架かる
木挽町七丁目と芝口新町に架かる 明治六年蓬莱橋と改称
汐留町入堀
〔会仙川〕
源助橋 C7 現第一京浜との交点辺りに架かる 
源助町と霜月町に架かる さくら橋とも
宇田川 宇田川橋 C7 現浜松町一丁目交差点やや北辺りに架かる 第一京浜との交点に架かる 宇田川町と柴井町・宇田川町に架かる
新堀川
(金杉川)
二之橋
A8 現麻布通り二の橋交差点東辺りに架かる 現在も同名橋が同所に架かる
円徳寺・丹波柏原藩織田出雲守邸前と上総飯野藩保科弾正邸前・東町に架かる 別称間部(まなべ)橋 日向橋
新堀川
(金杉川)
一之橋 A8 現麻布通り一の橋交差点東辺りに架かる 現在も同名橋が同所に架かる
芝南新門前二丁目代地と出羽上山藩松平山城守邸前に架かる
新堀川
(金杉川)
中之橋 B8 現中之橋交差点北辺りに架かる 現在も同名橋がほぼ同所に架かる
御被官八人大縄地・御賄方大縄地と筑後久留米藩有馬中務大輔邸前に架かる
新堀川
(金杉川)
赤羽橋 B8 現赤羽橋交差点南辺りに架かる 現在も同名橋が同所に架かる
広小路と芝松本町二丁目・筑後久留米藩有馬中務大輔邸前に架かる 
新堀川
(金杉川)
将監橋 C8 現将監橋交差点南辺りに架かる 現在も同名橋が同所に架かる
土手跡町と美濃大垣藩戸田釆女正邸前・播磨三草藩丹波長門守邸前に架かる 将監殿橋とも
新堀川
(金杉川)
金杉橋 C8 現第一京浜(旧東海道)との交点に架かる 現在も同名橋が同所に架かる
湊町・土手跡町と芝金杉通一丁目に架かる
参考図書:江戸東京重ね地図 株式会社エーピーピーカンパニー(安政三年 1856)
     PDF内の橋の名称、位置は上記を参考にしました
     東京の橋ー生きてる江戸の歴史ー 石川悌二著
     川の地図辞典 江戸・東京/23区編 菅原健二著


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注記
呉服師
将軍家や幕府が必要とする呉服物その他の衣料品は、公儀御用達の一つである呉服師によって調達された。江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)における公儀呉服師では、後藤縫殿介・茶屋四郎次郎・亀屋栄任の三名が知られている。禄高は二百石、半官半民の立場。

補足
橋の建設・維持管理の責任と費用負担の区分
◆公儀持(こうぎもち)
幕府が負担する幹線道路の橋=現在の国道に相当する。
◆武家方持(ぶけかた)
その橋のもよりの武家が負担する橋。一軒の武家(大名・旗本)または両岸の二軒の武家の負担。またはその道筋の数軒の武家が組合をつくり、禄高・橋との距離などによって負担額に差別をつけて運営する方式のもの。
◆町方持(まちかた)
町地(町人(町人居住地)に架かる橋は、その道筋の関係各町が組み合って費用を負担した。現在の区・市・町村橋に相当。
◆両方持(りょうほう)
武家方と町方が組み合って負担するもの。
 町方持・両方持は場合によっては橋銭を<渡り賃>として徴収したが、武家は無料であった。


注記
◆入会(いりあい)
共同で利用した土地
◆大縄地
武家屋敷の一つの種類で下級の武士が同じ組でまとまって与えられた屋敷。
◆代地
幕府が強制的に収用した町地の代替地として与えた土地。
◆上納地
幕府に一定の地代を上納して幕領地を借受け、さらに他人より地代を取って貸付けた土地。
◆白魚屋敷
年々白魚を幕府に献上して来た網元十二人の請願により、享保四年(1719)下賜せられたもの。

補足
二ツ目之橋
竪川に架かるこの橋の南詰め本所林町一丁目に大石良雄らが討ち入りの夜に立ち寄ったため評判になった蕎麦屋が明治時代まであったという。
◇万年橋
江戸時代の流罪人を送る流人船は隅田川永代橋の橋畔(きょうはん:橋のたもと)とこの小名木川に架かる万年橋の橋畔の両所から出された。
◇今戸橋
今戸はかわら焼きの狸や狐の焼物で古くから名高く、これを総称して今戸焼きというが、地名については小田原衆所領役帳に記される今津が転訛したものと伝えられる。この橋下を吉原通いの舟が通ったむかしは、その猪牙舟を親不孝舟などといったといい、「今戸橋 上より下を 人通る」といったにぎわいかたであったらしい。
◇鳥越橋
鳥越川に架かる鳥越橋は六つの呼名(鳥越橋、元鳥越橋、天王橋、地獄橋、千石橋、須賀橋)があったが、それは時代や環境の変化によるところであった。すなわち往昔の鳥越村が正保二年(1645)に一部分上地(あげち:幕府が知行地を没収すること、また、その土地)を命じられて、その代地を山谷堀の北側に与えられて新鳥越町(のちの吉野町)が起立すると、旧地の残りを元鳥越と唱えて、橋名にも元の字が付され、昔の鳥越村の鎮守だった天王社がその町名になって天王町とよばれると天王橋ともよばれたものである。天王社は明治後に須賀神社と改称され、いちばん最後の公称は須賀橋となった。鳥越の名は中世のころ源頼義と義家が大河にのぞみ、鳥が越えてゆくのを頼りに浅瀬を知って渡河することが出来たという伝説に起因するが、千住小塚原の刑場がなかった江戸の初期には、鳥越川に沿った鳥越村に斬罪場があったと伝えられる。現在の蔵前は問屋街として賑わっている。
◇弁慶橋
藍染川に架かる弁慶橋について江戸名所図会に「弁慶橋、於玉が池の東の方、和泉橋の通、藍染川の下流に架す。その始め御大工棟梁弁慶小左衛門といえる人の工夫にて懸初めしといえり。此地の地形に応じ、衢(ちまた:よつつじ)を横切って、筋違に架くる尤も奇なり」とある。
◇荒和布(あらめ)橋
西堀留川に架かる荒和布橋の東詰めをさらに東に行けば、東堀留川に架かる親父橋があり、これを渡れば芝居町であった。(PDF参照)川柳に御殿女中が宿下りの楽しみに芝居見物に行くことを風刺した「いそいそと 椎茸渡る あらめ橋」という句がある。「椎茸たぼ」という髪形は御殿女中の特有な結い形なので、椎茸といえば御殿女中の代名詞でもあった。尚、芝居町は天保の改革により天保十三(1842)年から翌年に浅草猿若町に移転した。
◇思案橋
東堀留川に架かる思案橋は古くはわざくれ橋と言った。「わざくれ」とは「えいままよどうでもなれ」というような意味で、思案に対するその決断である。この橋の上に立って吉原遊郭に行こうか、それとも芝居見物に行こうかと迷った末、えいままよ、と決断したのである。もっとも吉原が浅草の方へ移されてしまった後は「吉原が ひけて思案は いらぬ橋」となった。
◇新場橋
楓川に架かる新場橋の新場とは新肴(さかな)場の略称。つまり日本橋魚市場に対して新しく魚市場がこの橋辺りの河岸一帯で起こったので新場となった。
◇見当橋
江戸時代、見当橋が架かる鉄砲洲という場所は本湊町、船松町、十軒町、明石町の総称で、このへんむかしは「はぜ」の好釣場で、鉄砲洲鯊(はぜ)と称して、ことに秋の彼岸にとれたものは薬になるといって名物の一つであったという。

注記
幕府の施設・機関
★御籾蔵
凶作の年に備えて米の籾のままで所蔵する蔵。
★御船蔵(おふなぐら)
幕府の軍艦或はそれ以外の船舶を格納した船蔵。巨大軍艦の安宅丸が有名。
★御改正会所
(札差御改正会所)
寛政改革の棄捐令の際に札差救済のために浅草猿屋町に設置された機関。

 

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