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春之部 ○秋之部 ○冬之部
江戸名所花暦_夏

対象物 ナンバー 場所名 おおよその場所

〔これよりつつじ、きりしまにいたるまで、春の末に出すべきなれど、丁数の厚薄によって、
この巻のはじめにいだす。〕
1 亀戸天満宮の池辺 江東区亀戸3丁目6番地〔表門を入りて正面、一ノ反橋、この池に(こ
の池を心字の池といふ)添ひて左右藤棚あり。このしたにおのおの茶店を構ふ。ひだりは裏門のうち連歌堂まで(連歌堂今なし)、右は末社、頓宮神の社の際まで、真盛りのころは池にうつりて紫の水を流せるがごとし。〕
2 佃島 中央区佃1丁目〔もとはこのしま、安藤右京進殿御やしきなりと。いま安藤家より米をたまはれば、漁人また魚をまゐらすと。かの家抱への猟
師の遺風(なごり)なりと。ふぢを植ゑたるは、右京進殿墓しるしなりとぞ。住吉を祭りたるはそれより後のことなりといへり。藤、今は絶えたり。〕
3 上野山王権現の社地 台東区上野公園 西郷像の辺り〔いにしへは多くありしよしなれども、いまはたえてわづかに一株を存せり。〕
4 円光寺 台東区根岸3丁目11番地〔東叡山のうしろ、根岸にあり。庭中棚二十間余にかけ渡したり。盛りのころはそのもとに床机をすゑて、遊客酒くみかはして、いと興ずるなり。〕
5 外山(とやま)(戸山) 新宿区戸山2、3丁目、新宿7丁目、大久保1丁目〔尾州侯の御屋敷の脇、大久保通りへ出づる道筋、御家人衆の構へのうち、大木のもみの木あり。この木にかかれるふぢ、枝々にまとへるありさま、見あぐるばかりにして紫雲の棚引くがごとし。〕
6 芋阪(いもざか) 台東区谷中7丁目〜荒川区東日暮里5丁目〔谷中感応寺うら通り本村のうち、根岸、坂本へ出づる道に酒店あり。その軒近きにあり。〕
7 伝明寺(でんみょうじ) 文京区小日向4丁目3番地〔伝通院前通り、おたんす町の左のかたへくだる坂なり。これも俗よんで藤寺といふ。〕小石川5丁目信号を南西方向に下る坂で、江戸期には藤坂と呼んだ。
8 藤棚横町 文京区白山4丁目〜千石2丁目の辺り〔小石川白山御殿跡大通り、桜井氏にあり。昔は一めんの藤棚のよし。ゆゑに里俗、藤棚横町といふ。今は古木より若葉は出づれども花はなし。〕大通り沿いを探すと桜井家が一軒あり、そこだとすると千石3丁目19番地。白山御殿の跡は貞享元年(1684)小石川御薬園となり、さらに享保七年(1723)敷地内に養生所が設置された。
9 鈴ヶ森八幡宮 大田区大森北2丁目20番地 現 磐井神社;圏外〔品川に在り。境内所々に藤あり。一名、磐井の神社。当社に鈴石といふあり。大きさ二尺ばかりにして、色青赤し。他の石をもつてこれをうつに、その音鈴のごとし。〕

躑躅(つつじ)
きりしま
さつき

10 染井植木屋 豊島区駒込3丁目6〜11番の辺り〔駒込通りのさき、伝中松平甲州侯の御別館(しもやしき)の脇を左へ曲り行けば、数軒の植木屋あり。〕
11 穴稲荷の社地(忍岡稲荷) 台東区上野公園 現 花園稲荷〔上野御山内、池のはたのかたに門あり。その石階(いしだん)の辺りにあり。〕この忍岡稲荷に狐の住む穴があった故に穴稲荷とも呼んだ。
12 護国寺石階(いしだん)の左右 文京区大塚5丁目40番地〔音羽町のさき。山号は神齢山、本尊は馬脳石如意輪観音、唐仏。元禄年中(1688-1704)に本堂御建立あり。この地は御薬園なりしを、御建立のとき御薬園は白山にうつさる。〕
13 大久保百人町 新宿区百人町1、2丁目辺り〔四谷大久保武家地の園中すべてあり。なかんづく組屋敷を北のかたへ出づる門より二、三軒手まへ右のかた、飯島氏の園中に多し。ことに勝れたる映山紅(つつじ)の大樹あり。この花、八十八夜のころ盛りなり。〕町名の由来は百人組鉄砲隊の武士たちがここに住んでいたから。

ほととぎす
14 ●(虫編に斤)蜴(いもり)が池(宝泉寺内) 新宿区西早稲田1丁目6番地〔宝泉寺毘沙門堂の小高き山のうへは、新樹空をおほひて涼しく、このあたりの森より時鳥(ほととぎす)鳴き初(そ)むるとなり。〕新樹;新緑の樹木
15 初音の里 文京区白山1〜3丁目 白山御殿跡地は小石川植物園〔小石川白山御殿の旧地のほとり、指谷(さすがや)町へかけていふなり。この辺ははつ音はやし。ここより鳴きそむるといふ。〕指谷町;東京富山会館ビル辺りか。
16 幸(さいわい)稲荷の辺  港区芝公園3丁目5番地〔芝切通しのうへなり。増上寺の梢青葉さすころは、一声も二声にきこゆるといへり。〕
17 駿河台 千代田区神田駿河台1、2丁目辺り一帯〔御茶水の茂み、このところもはやくより鳴き初むるなり。〕駿河台;江戸砂子によると、「元は神田の台と云。御入国のみぎり駿府の在番衆を江戸にめされ、此所にやしきをくださる。それよりするがだいといふ」とある。

牡丹
18 木下川(きねがわ)薬師別当庭中

葛飾区東四つ木3丁目 木根川橋下流100mの綾瀬川と荒川に挟まれた荒川河川敷木根川橋球技場辺り 現在 薬師は葛飾区東四つ木1丁目5番地〔亀戸の先に在。青竜山浄興寺薬王院といふ。〕
19 富岡八幡宮 江東区富岡1丁目14番地(永代寺) 永代寺は明治初年に廃寺となり、明治29年富岡1丁目15番地に再興された。〔深川にあり。大栄山永代寺金剛神院。この園中牡丹盛りのころは、日覆(ひおい)、障子をかけ渡し、奇麗なり。〕日覆;日よけ 園中というのは現在の深川公園辺り
20 深山玄琳庭中 荒川区東尾久8丁目16番地辺り〔尾久の渡し手前なり。江戸豪家の隠士のよし。庭中に一株百りんの牡丹あり。高さ五尺余、めぐり六尺四方、花はそこ紅にて大輪なり。そのほかぼたん多し。〕
21 北沢邑(きたざわむら) 世田谷区台沢2、3、5丁目、北沢1、2丁目;圏外〔多摩郡下高井戸村の左、南の方なる北沢村の村長(なぬし)の庭中。盛りのころは遊客きそひてあゆみをはこぶ。〕
22 花屋鋪(向島) 墨田区東向島3丁目18番地 現 向島百花園〔向ふじま菊●(土編に鳥)(きくう)(俳人・百花園の開設者)の庭中。百品の花あり。〕
樗(おうち) 23 根津権現の古社 文京区根津1丁目28番地 現 根津神社 宝永3年(1706)以前 文京区千駄木3丁目3番地〔今の社よりは東の方、坂上にあり。樗の林、太田道灌の植ゑられしといひ伝ふ。〕

かきつばた
24 三囲稲荷の社地 墨田区向島2丁目5番地 現 三囲神社〔隅田堤の通り、小梅村の田の中にあり(ゆゑに田中の稲荷ともいふ)。〕
25 木下川(きねがわ)薬師の池(浄光寺)

葛飾区東四つ木3丁目 18と同じ場所〔亀戸のさきにあり。池中は一面紫にして、そのなかへ八ツ橋をかけわたし、往来をなさしむ。さかりのころは、文人墨客ここに遊ぶ。〕
26 蒲田和中散 大田区蒲田2、3丁目辺り;圏外〔品川の先なり。後園梅樹のもと一めんの池にして、杜若を植ゑたり。〕

卯の花
27 庚申塚 豊島区巣鴨4丁目35番地 旧中山道筋〔巣鴨、板橋宿へ出づる道筋なり。農家、あるいは植木屋におほし。〕
28 河崎 神奈川県川崎市川崎区;圏外〔大師河原より塩浜へ出づる道筋。農家にあり。家によりては、一丁余もあるべき垣根みなうつ木なれば、花のころは実に雪のつもれるがごとし。〕
29 長栄山本門寺 大田区池上1丁目1番地;圏外〔池上にあり。本堂左のかたに橘の大樹あり。花さき出づるころは、石階(いしだん)を登るに、その匂ひ繽紛(ひんぷん)たり。〕繽紛;多くのものが入り乱れる様。

くいな(水鶏)
30 標茅が原(しめじがはら) 台東区清川2丁目13番地 この辺り一帯を標茅が原という〔玉姫稲荷の辺り。〕
31 佃島 中央区佃1丁目 maru2と同じ場所〔さつきのころ船をうかめて、よもすがら聞く人あれども、雨のよくふる時節なればいとうかるべし。〕
合歓木(ねぶのはな) 32 綾瀬川 足立区花畑6〜8丁目の綾瀬川沿い辺り;圏外〔花又村の川筋、小菅御殿地の跡の辺。いにしへはおほかりしが、今はここかしこにあり。又大音寺前戸田侯別業(しもやしき)東のかた藩外、また本所柳島妙見の土居(どて)、水道橋土居とほり、所々にありといへども、たた往来にして一見するのみなれば、ここに挙ず。〕

33 ほたる沢 台東区谷中3丁目10番地(宗林寺)〔谷中三崎宗林寺の地なり。他のとくらぶれば、光甚だしく、形も大いなり。〕
34 姿見の橋(面影橋) 新宿区西早稲田3丁目〜豊島区高田2丁目〔落合すがたみ橋より三丁ばかり川上の上水川と、雑司ヶ谷の細流との間なり。この川の上のところに、一枚岩と唱へて水中に大巌あり。〕
35 王子下通り 北区西ヶ原2丁目の飛鳥山下の日光御成道の辺り〔王子より根岸、坂本へ通ふ飛鳥山の下をいふ。〕
36 江戸川の辺(ほとり) 文京区後楽2丁目7番地〜新宿区新小川町1丁目4番地にかけて江戸川上に架かる橋の川筋 竜慶橋 現 隆慶橋〔小日向竜慶橋の川すぢ。〕
37 深大寺 調布市深大寺元町5丁目15番地;圏外〔府中にあり。この地の蛍は、他に勝れて大きし。〕

38 溜池 千代田区永田町2丁目、霞ヶ関3丁目、港区赤坂1、2丁目〔赤阪御門外一めん、ため池まで、花葉水面をふさぎて夥し。〕
39 増上寺地中弁天の池 港区芝公園4丁目8番地〔赤羽根のかたへ出づる御門のうちなり。〕
40 不忍池(しのばずのいけ) 台東区上野公園2番地〔東叡山の麓なり。見わたし三、四丁、長さ五、七丁ほど。源水は谷中・千駄木の小川よりながれいづる。中じまに弁財天あり。江州(滋賀県)竹生島をうつす。寛永(1624-44)のころまでは離島にて、参詣の通路なかりしといへり。今は通路ありて、しかも島の回りはみな貨食屋(りょうりや)なり。名物蓮めし・田楽等をひさぐ。花盛りのころは、朝まだきより遊客、開花を見んとて賑はふ。実に東雲のころは、匂ひことにかんばしく、また紅白の蓮花、朝日に映ずる光景、たとへんに物なし。〕

すずみ(納涼)
41 両国橋 橋の位置は現在より50m下流 中央区東日本橋2丁目〜墨田区両国1丁目〔納涼避暑の地、所々にありといへども、この両国川をもつて東都第一とす。川幅百三十間余、水清くして流れやすらかなり。東に筑波青く聳え、西に不二白く立てり。右は永代、品川につづき、左は待乳山、隅田堤も遥かに見えて、橋の東西を元町(東)、広小路(西)と呼び、また五月二十八日よりは夜みせもことににぎはしくて、遊船もこれより次第に多くなれり。さて炎暑をしのがんとする輩は、この川上と川下に船をうかべ、あるいは橋の下に日をさけむため、船を繋ぎて、思ひ思ひに遊興す。三味線・小唄はいふもさらなり、楼船(やかたぶね)には踊りを催ほし、玉屋・鍵屋の花火は空をこがすばかりにて、壮観いふべくもあらず。酒うる船、菓(くだもの)うる船は酒肴の尽きたらんとおもふ船のあたりを漕ぎあるき、また風流の遊客は、隅田川の上のかたにふねをのぼせ、簫(しょう)・篳篥(ひちりき)などを吹きすさみてなぐさむもあり。あるいは碁・将棋に日を暮らすもあり。文政四、五(1821-22)のころより屋根船にて鳴物何くれとなく打ちならし、戯場(しばい)の物真似をなす。これを陰芝居と号(なづ)けて夕暮よりうかみ出でしが、わづかにして止みぬ。また吾妻橋のかみのかたに、鰻魚の蒲焼をひさぐふね、目標のあんどうなどかけならべ、家居のごとくなしたるありけるが、これも一、二年にして止みぬ。また安永(1772-81)、天明(1781-89)のころは大橋の先、中州の涼みといへるはいと興あることにして、船もいまよりは大きなるありて、高尾丸・川一丸・吉野丸(※)・神田丸などとなへたる大楼船(おおやかたぶね)ありて、いとにぎはしとなむ。往古(いにしえ)、慶長(1596-1615)のころ、夏の日の炎暑をくるしみ、もろ人納涼のためにひらた船に屋根を作りかけさし、これを借りて浅草河を乗りまはしける。これ船遊びのはじめなりと、『昔々物語』(1732)に見えたり。同書にいはく、「明暦三年(1657)災後三、四年が間、船遊びたえてせず。万治(1658-61)にいたりてまた彼の涼船を造り出だししかば、人またこれをかりて、夏日のあつさを凌ぎ、かつ災後の艱苦を忘る。よりていよいよこのことはやりて、人みな船のちひさきをうれひおもふほどに、船も次第に大きくなりて、七、八間の楼船を造り、後にはふねの名を川一丸・関東丸・山一丸・大関丸・市丸などと名づけて、山一丸は八、九間、熊一丸は十間あり、市丸は十一間、これらに主従数十人乗りて、弁当品々美をつくせり」云々。さて慶長のころ納涼船の権輿(はじまり)質素なることをしるべし。〕
※ひきやむと 吉野のぐるり 川と成り 三味線の音に付近の涼み船が吉野丸のまわりに集まり、水面も見えぬほどになるが、弾き終わると散って行く。
42 上野黒門前
(下谷広小路)

下谷広小路はいまの上野松坂屋デパート前から不忍池の入口辺りまでのところをいい、広場になっていた。〔広小路の中通り左右へ、夕暮より茶店並よく庄机を居、水なと打ちめくらして、諸人にあつさをしのかしむ。此地は川風なしといへとも、涼風きたるなり。〕現在、黒門は荒川区南千住1丁目59番地、円通寺内に移築されている。
荒和祓
(みそぎ)
43 真崎(まつさき)稲荷大明神
(真先稲荷明神社)

荒川区南千住3丁目38番地〔名越とは夏越の略にして、火剋金するを祓ふよし。公事根元、節折(よおり)の式に晦日の夜、御贖物(おんあがないもの)まゐる、あらよ(荒節)、にこよ(和節)の御装束云云。是すなはち御祓の具なり。荒節、和節の祓といふべきを、略して荒和(あらにこ)の祓といふにやと、ある人物語りき。江戸にて御祓(みそぎ)諸社に行ふといへども、この処と佃しまへ諸人群集す。〕 荒和祓とは6月晦日に罪穢れをお祓いする神事。六月の 晦日神主 いいはらい 御祓いで大忙しの神主。礼金で懐も暖まる。御祓いと金払いを掛けている。
春之部 ○秋之部 ○冬之部
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