「桶伏せ(おけぶせ)」とは? |
吉原で行われた私刑。揚げ代を払えない客に窓穴の付いた風呂桶をかぶせて、路傍にてさらし者にした。江戸前期に行われた。また、「付き馬」といって不払いの遊興費を客の自宅まで受け取りに付いて行く稼業(遊女屋とは別の独立した営業)のものもいた。
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元吉原
元和三年(1617)庄司甚右衛門が各地に散在していた遊女屋を堺町の東側にあった葦沼に集め、幕府に出願して認可され、翌年営業を始めた。
江戸の町の拡大に伴い、吉原が中心部に近くなったことから、幕府は移転を命じ、明暦の火事を契機として浅草吉原田圃(たんぼ)に明暦三年(1656)移転した。
幕府が出した移転条件
郭 敷地の5割り増し |
昼夜営業の許可(元吉原は昼営業のみ) |
湯女風呂200軒余りの取り潰しの確約 |
移転料:1万500両・1万9千両(諸説有り) |
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新吉原(見取り図)
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大門(おおもん)
毎朝未明に開けられ夜四ツ(10時)に閉められた[引け四ツ]。それ以後はくぐり戸から。実際は九ツ(12時)に四ツの拍子木を打ち二時間ごまかしたといわれる。
幅八尺(2.4m)黒塗り冠木門 |
衣紋坂(えもんざか)
吉原に入る客がこの辺りで衣紋を整えたところよりこの名が付いた。
衣紋坂 度々下りて 左り前 |
編み笠茶屋
遊客に顔を隠すための編笠を貸した茶屋。宝暦以降は名前だけで編笠を貸すこともなくなった。 |
見返り柳
吉原から帰る客が名残惜しさにここまで来て見返るところだと言われる。 |
高札場
・吉原以外の私娼の禁令
・乗物と武器の禁止
これら二点がその内容 |
お歯黒どぶ
遊女の逃亡を防ぐための五間(9m)幅の堀。幕末二間。 |
五十間道
茶屋や商家などが並び、その中に「吉原細見」板元の蔦屋重三郎の店が左側中程にあった。吉原細見:吉原のガイドブック
日本から 極楽わづか 五十間 日本=日本堤 |
四郎兵衛会所
郭内の女たちの人別帳を常備し、遊女たちの逃亡を監視する番小屋。 |
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吉原の現在に残る痕跡といえば五十間道のこのS字カーブか。上図とは逆だが幕末の地図ではこの曲がりである。 |
江戸から数代後の現在の見返り柳
台東区千束4-10-8 |
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日に三箱 散る山吹は 花の江戸
江戸の吉原・芝居街・魚河岸は日に千両の金が動いたと言われている。 山吹=小判 |
江戸 吉原遊郭は
歌舞伎と並び江戸文化の二大双璧。吉原は単なる売春地帯ではなく文化サロンであり身分・階層のない開放的な社交場だった。狂歌会・句会・絵暦の品評会等が催された。
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吉原は町奉行の管轄
地理的には江戸の外で代官の支配地である吉原だが、幕府は公認した関係上、町奉行の支配下に置いた。
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首尾の松
浅草御米蔵 四番堀と五番堀との間の川岸にあった松。
柳橋から猪牙舟に乗って吉原に通う客が今宵の首尾が良いようにと願うのがこの辺りであった。
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新吉原の別称
ありんす国、苦界、他界
北国(ほっこく)、北里(きたざと)、北州(ほくしゅう)【品川を南州といった】、北郭、北都、町(ちょう)、北、仲(なか)。
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芝居町を二丁町といい、吉原を五丁町(ごちょうまち)と呼んだ。
元吉原の江戸町1,2町、京町1,2町、角町(すみちょう)の5町よりその名が付いた。新吉原になって揚屋町が加わり、寛文5年(1665)江戸町に伏見町・堺町が加わり8町になる。 |
冠木門(かぶきもん)
左右の柱の上部を貫く横木を渡した屋根のない門。 |
吉原と岡場所は常に対立した存在で、岡場所の隆盛は吉原の衰退につながるため死活問題であった。
乗物とは籠(かご)のこと
武器とは鑓(やり)・薙刀(なぎなた)のこと
なお、両刀は揚屋・遊女屋の帳場に預けた。 |
廓内には豆腐屋や菓子屋もあった!
揚屋町:山屋市右衛門 朧(おぼろ)豆腐 豆腐を煮て葛餡(くずあん)をかけた料理。
江戸町1丁目:竹村 最中(もなか)
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二十七 長屋一番
手ぶっちょう
吉原の遊女は二十七歳の暮れで年季明きと決まっている。手ぶっちょうは不器用。つまり18から27の10年間を売春一本やりでは、炊事、洗濯、掃除等何もできないのも無理からぬことか。
何文の 足袋やら
二十七の暮
吉原の遊女は粋を気取って、冬でも足袋ははかず素足で過ごした。なので年期が明けた二十八歳の正月に足袋を履こうとしても、今まで履いたことが無いので何文か分からない。
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遊郭で働く男の使用人を、年齢に関係なく「若い者」と言った。
是(これ)ぢゞい
若い者とは 其方か
句はそのことを、知らない無粋な田舎侍の言。
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