ビバ!江戸
「おだいば」って名前の由来は?

御砲台場(おほうだいば)からきたもので、当時幕府の施設には「御」をつけた。
幕末の嘉永六年(1852)ペリー提督率いる四隻の「黒船」が浦賀沖に姿を現した。あわてた幕府は伊豆韮山代官の江川太郎左衛門に江戸防衛のため、品川沖に砲台場の築造を命じた。


江戸のお台場


江戸お台場地図

ペリーはその圧倒的な戦艦(武力)で威嚇しながら開国を求める国書を強引に手渡し、半年後の返答を求めて再来日することを言い残し、江戸を後にした。

ペリー来航の年からその翌年に架け、品川沖の海に五角形や六角形の人工島を造成し、洋式の大砲を整備した。

伊豆、真鶴から二千の船で石材を運び、五千の人夫が八つ山、御殿山を崩して土を運んだ。

圧倒的な差!

 旗艦サスケハナ号と千石船の比較


江戸お台場 砲台場の位置図

現存する砲台場 砲台跡
左:第6 右:第3 後ろがレインボーブリッジ
フジテレビ球体展望台より撮影  
第3砲台は地続きで、行ってみると意外と広い。
 

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江川太郎左衛門
江川英龍。世襲で代官を務める。
西洋式兵学家、砲術家。
幕府海防掛として登用される。  

 

落首
  泰平の眠りを覚ます
     上喜撰(蒸気船)
  たった4ハイで
    夜もねむれず
上喜撰: お茶の銘柄の「喜撰」の上等のもの

 

 

 

 

 

 

赤色の台場は今はありません。
第3,第6の二つが現存しています。当初は11基が計画されましたが、財政上の理由、また日米和親条約の締結により残りは着工されませんでした。
なお、幸いなことにこれらの砲台は実戦で使われることはありませんでした。

台場が品川沖に造られた理由
品川沖にかたまって造られた理由は、江戸湾の中で黒船級の大型船が通れる澪筋(みおすじ;船の通行に適する水深がある道筋)があり、その水路で待ち構えたわけである。

 

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