江戸の目明かしは……町の嫌われ者!?
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「目明かし」あるいは「岡っ引き」は芝居に出てくる銭形平次のようなヒーローとはほど遠い存在で、庶民の弱みにつけ込みゆすり・たかりまがいのことをしていた。公的な身分はなく町同心個人が手先として使っていたにすぎない。
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ひろい江戸の町を、警察業務としてパトロールや事件の探索に従事していたのは
町同心の 定町廻り、臨時廻り、隠密廻りの十数名、南北あわせてもたった30名前後である。
とてもこれだけの人数ではやっていけない。
そこで必然的に同心もアシスタントとして働いてくれるものが必要となってくる。
ところが、目明かしの収入というのは、同心がポケットマネーでその都度払っていた
と言う説と、使っている頭数を奉行所に申告してその分を渡していたという説があるが、
いずれにしても、その額は大の大人が暮らしていけるようなものではなかったそうだ。
それでは、なぜ薄給にもかかわらずなり手があったのか?
それは一つにはお上の権力を自分も持てたという優越感か、あと一つはその権力を
かさに着て、おねだり的なものから強請り・たかりまで合法・非合法に金を稼げたからか。
そういった目明かしの弊害は度重なる幕府の目明かし使用禁止命令で証明される。
しかし、必要悪とは知りつつも、目明かしを使わざるを得なかったのである。
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神田明神 右の碑はこの裏手にあります。 |
銭形平次の墓? 野村胡堂作「銭形平次捕物控」の小説上の架空の人物なので、モニュメントと言った方がいいのでしょうか。台座は投げ銭の寛永通宝がデザインされています。右横にはちゃんと手下の八五郎の分もあります。 |
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そもそも犯罪者上がりで、仲間の犯罪を密告して罪を免除され者を目明かしとして使ったのが始まり。役人もこうした犯罪に通じた者の中から目端の利く者を手下にした。
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八代将軍吉宗の時、「目明かし」廃止令が出された後、「岡っ引き」と名称を変えるが実体は変わらず。 |
幕末期
その数は一説によると
岡っ引き:約400名
下っ引き:約600名
と言われている。 |
同心は配下となる目明かし等に「手札」{鑑札証のようなものか)を渡していたとされるが、これもあくまで同心個人の権限でしたもの。 |
捕り物
犯人逮捕は(現行犯を除いて)目明かしが独断で行うことはない。必ず同心の指示が必要。
十手
目明かしの十手には房は付かない。与力・同心のみ朱房がつく。 |
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