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説 明 板
五世川柳 水谷緑亭(りょくてい)句碑
水谷緑亭(一七八五〜一八五八)は、日本橋南茅場町(茅場町一丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼いときに父母を失くし、佃島の漁師で遠縁にあたる水谷太平次に養われ、勉励して家業を繁昌させ、佃島の名主をつとめたと伝えられています。また、商売の余暇には読書に努め、文化年間の始め、川柳二世の門に入り、鯉斎佃(なまぐさいたづくり)と号して、前句付を学びました。天保八年(一八三七)五十歳の時、川柳四世の八丁堀の同心であった人見周助から譲り受け、五世を名乗りました。
緑亭は柳流式法および句案十体を唱え、俳諧や歌道にも通じていましたが、安政五年(一八五八)八月、コレラの流行によって病死しました。編著には、『狂句百味筆笥』をはじめ『佃島住吉社奉額狂句舎』『歌書小伝』等があります。また養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正したなどの功績により、南町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。
この碑は、昭和四十四年十一月に、佃の人々によって建立されたものです。
平成九年三月
中央区教育委員会 |
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