三十間堀



説 明 板

三十間堀(さんじっけんぼり)
所在地 中央区銀座八−十一−十三先
三十間堀は京橋川から汐留川にいたる横堀川でした。慶長十七年(一六一二)江戸の船入堀を整備するため、西国大名に開削工事を命じて完成しました。堀幅が三十間あったために三十間堀と呼ばれました。文政十一年(一八二八)に幅を十九間に狭めたといわれています。
江戸時代初期の『寛永江戸図』に三十間堀と見え、堀の南側は紀伊徳川家をはじめ、京極、加藤、松平などの諸大名の屋敷が並んでいました。延宝七年(一六七三)の図では西岸は三十間堀町一〜八丁目、東岸は木挽町一〜七丁目で、河岸場があり、舟運の荷物の揚げ場でした。
幕末から明治時代にかけて、船宿が並んで屋形船や屋根船が往来し、明治三十四年(一九〇一)の『新撰東京名所図会』にも、その賑わいの様子が描かれています。
明治十七年(一八八四)、三十間堀には真福寺橋、豊蔵橋、紀伊国橋、豊玉橋、朝日橋、三原橋、木挽橋、出雲橋等多くの橋が架けられていました。
三十間堀は戦後、灰燼の山を処理するために、昭和二十三年から埋立てが始まり、同二十七年七月に完了したあとは次第に商店やオフィスなどの立ち並ぶ街になりました。
平成十年三月
中央区教育委員会
 

銀座地図に戻る 中央区マップに戻る


ビバ!江戸 all right reserved