トロイア遺跡を発掘したシュリーマンはその6年前に日本に来ていた。
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ロシアで藍の商売を手がけ巨万の富を得、1865年(慶応元年)世界漫遊の旅の途中に日本にも立ち寄った。帰国した後、考古学を学び1871年(明治四)トロイア遺跡を発掘した。 |
ドン・ロドリゴ |
スペイン人/スペインの前フィリピン臨時総督 元メキシコ タスコ銀山長官 |
滞在期間;1609-1610(約10ヶ月) |
フィリピンからノビスパニア(メキシコ)に向かう途中、嵐に遭い千葉県御宿沖で座礁し村人に助けられる。 |
(江戸初期の市街について)
『此市及び街路には観るべき物甚だ多く、市政も亦大に見るべき所あり。ローマ人の政治と競うことを得べし、市街には互に優劣なく、皆一様に幅廣く又長くして直なること西班牙の市街に勝れり。家は木造にして二階建なるものあり、而して外観に於いては我が家屋優良なれども、内部の美は彼遙に勝れり。又街路は清潔にして何人も之を踏まずと思はるる程なり』 |
『ドン・ドロリゴ日本見聞録』村上直次郎訳 雄松堂書店 |
エンゲルベルト・ケンペル |
ドイツ人/長崎出島オランダ商館医 |
滞在期間;1690-1692 |
元禄三年(1690)オランダ東インド会社の医官として二年間長崎商館に在任。二度江戸参府に随行。 |
(将軍から不老長寿の薬を問われて)
『「支那の医師が数百年来行って来たように、其方もまた長寿の薬を探し求めているのではないか。
あるいは他のヨーロッパの医師がすでにそうした薬を発見したのではないか」
という質問を受け
「どうすれば人間は高齢になるまで己の健康を保てるか、という秘法を発見しようと、われわれ医者は毎日研究しております」と私は答えた。さらに「そのためには何が一番良いか」という問いに対して、
答え「経験が他のものを教えるまでは、最新のものが最上のものであります」。
問い「一体どれが最新のものか」。
答え「一種の酒精で、適度に用いれば、水気を流動的に保ち、そして活力を旺盛にします」。
問い「それは何という名か」。
答え「ザル ヴォラティレ オレオムス ジルヴィ〔ジルヴィウスの油性揮発塩〕」。
私は、日本人の間で長い名称や題名を持っているものは何でも重んじられることを知っていたので、
なおさらこうした名前を選んだのであるが、御簾の後ろで書き付ける間、私はその名を何回も繰り返さねばならなかった。
問い「一体どこで手に入れることができるのか、誰がそれを発明したのか」。
答え「オランダで、ジルヴィウス教授でございます」。
問い「其方もその薬をつくることができるか」。
ここでカピタン殿は私に合図して、できないと言え、と命じた。しかし私は
「はい、できまする。しかし、ここではできませぬ」と答えた。
問い「バタビアでは手に入るか」。
答え「はい」。そこで将軍は次の船でその見本を送れと要求した。その薬は次の年にそういう名前で届けられたが、
それは実際には丁子を加えて浸出した好ましくないアンモニア精に他ならなかった。』 |
『江戸参府旅行記』斎藤信訳 平凡社 |
ツンベルグ |
スウェーデン人/長崎出島オランダ商館医 植物学者・医師 |
滞在期間;1775-1776 |
日本の蘭学勃興期に来日し杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周らに影響を及ぼす |
(特質及び欠点、文明の程度)
『(中略)この国民の精神は體に劣らない特徴を持っている。そしてどの国民でも同じであるが、善い性質もあり、悪い性質もある。然し全体から云えば善い性質の方が勝っている。気が利いていると供に賢明である。従順であるが、同時に正義を愛し又ある程度までは自由を主張する。活動的で、質素で、経済的で、誠実で且つ勇気に富んでいる。かかる特質及び徳により、この国民の欠点と思われる、迷信的で、自惚れ強く、時にはかなり強い程度になる、疑い深い点を償うのである。日本国民はあらゆる仕事のうちに、堅固なるその精神と、未だ目覚めたに過ぎない科学の与えうる限りの賢明なる精神とを、常に現はしている。私の試みた片影の描写を見た人は、日本人を野蛮民族のうちに入れはしないだろう。私としては文明国民に比して遜色のないものと思っている。その政治組織、外国人に対する態度、その美術、土地の耕作、国内到るろころに見られる豊饒な産物、その他いろいろなものが、この国民の賢明にして意志強固に且つ勇気に富むことを證している。』 |
『ツンベルグ日本紀行』山田珠樹訳 雄松堂書店 |
ゴロウニン |
ロシア人/海軍士官 |
滞在期間;1811-1813(2年3ヶ月) |
ディアナ号艦長 クリル列島南部測量中、国後寄港中に捕らえられ松前に移送監禁される |
(鎖国論議)
『我々は、外国との交渉をいっさい避けようとする日本の政策を非難し、ヨーロッパ人が相互の交渉から受けている利益の例を幾つか挙げて説明した。例えば、我われは他の国でなされた発見や発明を利用し、他の国は我われのものを利用している。我われは自国の産物を他国民に提供し、他の国は我われに必要なものを我が国に輸送してくる。このため人々は仕事に精励し諸業は盛大になっている。ヨーロッパの国民は大きな満足と快適を楽しんでいる。もしヨーロッパの国王たちが日本の政策を真似て他国とのあらゆる関係を断絶したら、いったいどうなっただろうか。一口に言えば我われの制度を謳歌し、日本の政策を非難し、この問題について本で読んだり、人から聞いたことを思いつくままに述べたのであった。
日本人は注意深く我われの話を聞き、ヨーロッパ諸国の政府の頭の良さと慧眼を褒めた。我われの強力な論拠に説得され、完全に我われの意見に同意したように見えた。ところが次第に話題を転じ、気付かないうちに話題を戦争の方へ持っていって我われに尋ねた。
「どうしてヨーロッパでは戦争のないのが五年と続かないのですか。そして二つの国が争いを起こすと他の多くの国がこの争いに巻き込まれてヨーロッパ全体の戦争になるのはなぜですか?」
「その理由は」と我われは説明した。
「国々が隣接し、絶えず交渉を持っているので紛争のきっかけが出来るのです。それは常に友好的に解決できるとは限らないのです。そしてそれに個人的な利害と野心が交じってくるとなおさらです。さてある国が他国と戦争して大いに優勢となり、国力が強大となってくるとすると他の国々はそれが自分たちにとって危険になるのを黙って見ておれず、弱い国の味方をして強い方に対して戦争をしかけるのです。強い国の方でも同様に同盟国を捜す努力をします。こうして戦争はしばしば全ヨーロッパに広がるのです。」
日本人は我われの話を傾聴して、ヨーロッパの国王の賢明さを賞賛してから、
「ヨーロッパに強国は全部で幾つありますか」と尋ねた。
我われが列強の名を挙げて数えると彼らは、
「仮に日本と支那がヨーロッパの諸国と国交を結んでヨーロッパの制度にならうと、人間同士の間の戦争はますます頻繁になり、よけいに人間の血が流れることになるのではないか」と尋ねた。
「そうです、そのようになるかも知れない」と我われは答えた。
「もしそうだとすれば」と日本人は続けた。
「さっきから二時間ばかりその利益をいろいろと説明していただいたが、日本としてはヨーロッパと交際するより、国民の不幸を少なくするためには古来の立場を守った方がよいというのが我われの意見です。」
正直言って私は、この遠回しの思いがけない反駁にどう答えてよいか知らなかった。そこで私としては、
「私がもっと日本語が上手になったときには、もちろん我われの意見をもっと正しく証明することが出来るのですが」と答えるより仕方がなかった。しかし心中では、たとえ私が日本語の演説家になったとしても、この真理に反駁することは難しいだろう、と考えたのであった。』 |
『ロシア士官の見た徳川日本』徳力真太郎訳 講談社 |
ヘンリー・ヒュースケン |
オランダ人/通訳 |
滞在期間;1856-1861 |
日米修好通商条約(1858;安政5)調印の際の米側全権使節ハリスの通訳 |
(調印のため下田から江戸城を訪れて)
『日本の宮廷は、たしかに人目を惹くほどの豪奢さはない。廷臣は大勢いたが、ダイヤモンドが光って見えるようなことは一度もなかった。わずかに刀の柄に小さな金の飾りが認められるくらいだった。シャムの宮廷の貴族は、その未開さを泥臭い贅沢で隠そうとして、金や宝石で飾りたてていた。しかし江戸の宮廷の簡素なこと、気品と威厳をそなえた廷臣たちの態度、名だたる宮廷に栄光をそなえる洗練された作法、そういったものはインド諸国のすべてのダイヤモンドよりもはるかに眩い光を放っていた。』 |
『ヒュースケン日本日記』青木枝朗訳 岩波文庫 |
ロバート・フォーチュン |
スコットランド人/園芸植物家 |
滞在期間;1860・1861 |
英国東インド会社の依頼で中国からインドに茶の木を移植して有名になる。キク・ラン・ユリなど東洋の代表的鑑賞植物も英国に紹介。 |
(花を愛する国民性)
『馬で郊外のこぢんまりした住居や小屋の傍らを通り過ぎると、家の前に日本人好みの草花を少しばかり植え込んだ小庭を造っている。日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い層の人々は、イギリスの同じ階級の人たちに較べると、ずっと優って見える。』 |
『幕末日本探訪記』三宅馨訳 講談社 |
ハインリッヒ・シュリーマン |
ドイツ人/旅行家のち考古学者 |
滞在期間;1864(3ヶ月) |
冒頭に記載 |
(たたみ文化を絶賛!?)
『ヨーロッパでは、食器戸棚、婦人用衣装箪笥や男性用の洋服箪笥、ヘッドボードにテーブル、椅子、それにもろもろの最小限必要とされる家具類の豪華さを、隣人たちと競いあう。だから、多少とも広い住宅、幾人もの召使、調度品をそろえるための資産が必要だし、年間の莫大な出費がどうしても必要となる。ヨーロッパの結婚難は家具調度を競おうとするためであり、そのための出費がかさむからである。ヨーロッパでは、そうした出費に堪えるほど裕福な者でなければ、結婚など考えない。
ところが日本に来て私は、ヨーロッパで必要不可欠だとみなされていたものの大部分は、もともとあったものではなく、文明がつくりだしたものであることに気がついた。寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要ではないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからにすぎないこと、それらぬきでもじゅんぶんやっていけるのだとわかったのである。もし正座に慣れたら、つまり椅子やテーブル、長椅子、あるいはベッドとして、この美しい”ござ”を用いることに慣れることができたら、今と同じくらい快適に生活できるだろう。もしヨーロッパの親たちが日本の習慣を取り入れて、子供たちの結婚準備から解放されたら、それはなんという励ましになることだろう。』 |
『シュリーマン旅行記 清国・日本』石井和子訳 講談社 |
A・B・ミットフォード |
イギリス人/英国公使館書記官 |
滞在期間;1866-1870(3年余) |
幕府および明治政府との外交交渉に当たり尽力する。 |
(天皇に謁見する)
『我々が部屋に入ると、天子は立ち上がって、我々の敬礼に対して礼を返された。彼は当時、輝く目と明るい顔色をした背の高い若者であった。彼の動作には非常に威厳があり、世界中のどの王国よりも何世紀も古い王家の世継ぎにふさわしいものであった。彼は白い上着を着て、詰め物をした長い袴は真紅で婦人の宮廷服の裳裾のように裾を引いていた。(中略)頬には紅をさし、唇は赤と金に塗られ、歯はお歯黒で染められていた。このように、本来の姿を戯画化した状態で、なお威厳を保つのは並大抵のわざではないが、それでもなお、高貴の血筋を引いていることがありありとうかがわれていた。付け加えておくと、間もなく若い帝王は、これらの陳腐な風習や古い時代の束縛を、その他の時代遅れのもろもろと一緒に、全部追放したということである。』 |
『英国外交官の見た幕末維新』長岡祥三訳 新人物往来社 |
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ヒュースケンの墓
1861年1月15日プロシア(ドイツ)使節の芝赤羽接遇所を訪ねた帰途、攘夷派に襲われ翌日死去。
首都高速 天現寺入り口付近 光林寺
港区南麻布4-11-25
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日・西・墨三国交通発祥記念碑(メキシコ塔)
千葉県御宿 岩和田
昭和3年10月1日建立 |
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トロイア遺跡
小アジア(トルコ)北西部のヒサリクの丘にある古代都市遺跡。
ホメロスの叙事詩「イリアス」の中のトロイ戦争の舞台。
エーゲ文明中心地の一つ。 |
将軍:徳川綱吉
カピタン(甲比丹);出島オランダ商館長
バタビア:インドネシアの首都ジャカルタのオランダ領時代の呼称。
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オランダ商館の江戸参府
通商免許のお礼のため江戸城に伺候し将軍に拝礼の上、土産物を献上した。
慶長14年(1608)に始まり、寛永10年(1633)から寛政2年(1790)までは毎年、以後は4年に一度、嘉永3年(1850)まで続く、計166回。行列の格式は大名に相当、費用はすべてオランダ持ち。 |
1804年(文化元年)日本との通商交渉を拒絶されたロシア使節レザノフはサハリンやエトロフを襲撃させた。そのため日本人の対ロシア感情は悪化していた。 |
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