ビバ!江戸
エレキテルで有名な平賀源内は………アスベストを使用した不燃布を発明していた。

明和元年(1764)石綿(アスベスト)を使用した燃えない布;火浣布(かかんぷ)で消化作業時に着る防火服を作ったが結果的に実用化はされずに終わっている。

吉祥寺(中央線)に吉祥寺がないのは?豪徳寺・祐天寺・高円寺などの駅周辺には同名のお寺があるのに…
吉祥寺は存在します。ただし、駒込に。この頁下段に説明してますように、吉祥寺は明暦の大火後、寺社の大幅な配置換えで水道橋北側から駒込に移されました。ただ、門前町の住民は万治二年(1659)、新田開発のため現在の武蔵野市吉祥寺に移動させられましたが、それが現在の吉祥寺の地名の由来です。

江戸の火事と火消し


江戸の火消しは
「破壊消防」
出火地点の風下側の家を人海戦術で迅速に撤去し延焼を防いだ。そのため消火には多くの人員が必要で壊す作業に慣れた鳶(とび)が重用された。
10月から3月にかけて冬の北西風、春の南西風等の季節風と晴天続きの乾燥した中で、延焼し大火になることが多かった。
「宵越しの銭は持たぬ」 2、30年ごとに大火があるという江戸では全財産や人命の保証はなく、おのずと蓄財意識が低くなったが、運命共同体としての連帯感は形成された。「江戸ものの 生まれそこない 金をため」

江戸の消防組織
定火消
(じょうびけし)
幕府直轄の消防組織。江戸城周辺を管轄。
定火消役の旗本が同心・臥煙(がえん)を率いた。
大名火消
(だいみょうびけし)
大名屋敷の自衛消防組織。他に幕府より命じられた方角火消、八丁火消などがある。
町火消
(まちびけし)
町人が自治的に設けた自衛消防組織。いろは四十八組の編成。語呂の悪い「へ、ら、ひ、ん」を「百、千、万、本」に。
火災の際には上記三系統が重なり合い、手柄を争い衝突することも珍しくなかった。特に町火消は大名火消を目の敵にし、日頃の対武家意識のうっぷんを晴らした。

町火消

組 織

町奉行の指揮下に
頭取・頭・纏(まとい)・梯子・鳶・土手人足
鳶(とび) 普段は主として土木・建設工事に従事し、火災時のみ出動した。そのため遠方での仕事は出来なかった。
纏(まとい) 火消の組を示すシンボルであり文字通り看板であった。当初は纏ではなく幟(のぼり)を使用していた。時代と共にその造作も華美になった。馬簾と呼ばれる下げ飾りは「いろは48組」にちなみ48枚あった。
半鐘(はんしょう) 時代によって板木・ドラなどを使用した。火事が遠い場合は打つ間隔を開け、二度打ちは大火のおそれがあり、近火はスリバンといって続けざまに打った。
竜吐水
(りゅうとすい)
明和元年(1764)幕府から町火消に竜吐水55台が与えられる。木箱の上にある長い腕木の両端をシーソーのように上下させ放水した。機構は幼稚なため実効性はなかった。主に纏持ちを守るためそれにかけた。

竜吐水 纏
竜吐水、右が玄蕃桶(げんばおけ)二人で担ぎ竜吐水に補給した
東京消防庁「消防博物館」蔵
 纏(まとい) 組のシンボル
 高さ:2.4m 重さ:六貫(約22kg)

明暦の大火(1657)
俗に「振り袖火事」とも言われ江戸史上空前の大火災。江戸城本丸・天守閣をはじめ江戸の大半を焼き尽くす。死者10万人余。この火災により江戸の町の大改造が行われた。
江戸城内から御三家並びに諸大名の屋敷を城外に移す。跡地はすべて空き地とする。
神社や寺は江戸の周辺に移す。→浅草、駒込、小石川、三田、芝
防火地帯をつくる ・広小路 ・火除け地 ・防火堤
隅田川の東、本所(墨田区)深川(江東区)方面に市街地を広げ、武家屋敷・社寺・町屋を移す。
火災時の避難路確保と上記の方面の居住者の便のため両国橋を架ける。橋の近辺は火除け地を確保する。
消防組織である「定火消」を設ける。

※画像等は当該博物館にお断りして掲載しています。  

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中流以上の商家では一軒分の材木を木組みして深川の木場にある材木問屋に預けておき、火事の翌日には材料を運び入れてたちまち家を建てたと言われる。





臥煙(がえん)
火消人足。 冬でも法被(はっぴ)一枚で「彫り物」をちらつかせ、平常時は町で乱暴な振る舞いも目立ったという。
八丁火消
自藩の屋敷より八丁四方とか五丁四方など、その出動範囲を定められた。近所火消ともいう。
方角火消
江戸城中心に五方向に分けてその分担を定められた。主に幕府の重要施設。

町火消の人員
元文三年(1738)の記録によると全組の鳶:4077人、店人足:6565人
店人足は一般の町人で鳶の補助。

消し口
消火(破壊)地点。頭が風の向き、火の勢い、家並みの構成(土蔵等がある場合は耐火構造)等を判断してその地点を決めた。そこに組の象徴である纏をたて消し口を取った。鎮火後はその場所に組の名が書かれた「消札」をたて、手柄の証拠とした。火事場の喧嘩では主にこの「消し口を取る」争いが原因であった。

土蔵は火災の際には目張りをすれば有効。仮にいくつかの土蔵を所有する家が失火を出した場合、世間への申し訳にそのうちの一つをわざと燃やしたと言われる。


江戸の三大大火
明暦の大火(1657)
死者:10万人以上
目黒行人坂の大火(1772)
死者:1万5千人
文化丙寅(へいいん)の大火(1806)死者:1200人
いずれも冬・春の季節風の中で起こっている。


 

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