天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府して以来、発展・膨張をし続けた首都江戸は、100年後の享保期には町数が千を超え人口が百万人を超える巨大都市へと変貌した。
しかしながら、江戸の境界・範囲については意外にも幕閣の間でも統一見解はなかった。
というのも江戸時代は身分社会で町民・武士・僧侶により支配する機関もそれぞれ独立しており今日で言う行政区画の制度はなかった。
そこで幕府は統一見解を示すように求められて文政元年(1818)右の「江戸朱引図」を作成した。
・外側朱引き線(札懸場堺筋 並 寺社方勧化場堺筋)
・内側墨引き線(町奉行支配場堺筋)
下 地図の朱引き・墨引き線は「大都市江戸の遺跡」編集;東京都教育庁社会教育部計画課 を参照して作成しました。
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