ビバ!江戸
江戸市中(御府内)の範囲を幕府が示したのはたった一度、しかもその時期は江戸幕府誕生から二百年を過ぎた1818年だった。

文政元年(1818)目付 牧助右衛門から「御府内外堺筋之儀」についての伺いが出された。つまり「御府内とはどこからどこまでか」との問い合わせがあり、それについて幕府評定所で評議し江戸朱引図を作成したがこれが江戸の範囲として幕府の唯一の正式見解となった。


江戸の範囲

天正18年(1590)徳川家康が江戸に入府して以来、発展・膨張をし続けた首都江戸は、100年後の享保期には町数が千を超え人口が百万人を超える巨大都市へと変貌した。

しかしながら、江戸の境界・範囲については意外にも幕閣の間でも統一見解はなかった。

というのも江戸時代は身分社会で町民・武士・僧侶により支配する機関もそれぞれ独立しており今日で言う行政区画の制度はなかった。

そこで幕府は統一見解を示すように求められて文政元年(1818)右の「江戸朱引図」を作成した。

・外側朱引き線(札懸場堺筋 並 寺社方勧化場堺筋)
・内側墨引き線(町奉行支配場堺筋)

下 地図の朱引き・墨引き線は「大都市江戸の遺跡」編集;東京都教育庁社会教育部計画課 を参照して作成しました。

 文政江戸朱引図
 (東京都立公文書館所蔵)
文政江戸朱引図

評定所
江戸幕府最高裁判所
構成員は老中・三奉行・大目付・目付(事案により構成員は変化)
重要事案について評議した。
最終は将軍の決済を仰ぐ。

徒歩が基準
本来の考え方として、基本は城を中心にして1日に徒歩で往復できる範囲が江戸であった。


江戸朱引図
実物はカラー
外側が朱引(御府内)
内側が墨引き(町奉行所支配)
一部 目黒付近で墨引きが朱引きを越えているのは、当時江戸庶民の行楽地としてたいそうなにぎわいを見せた目黒不動があったため。

勧化(かんげ)
寺や神社等を修復するために金品の寄付を勧めること。
札懸け場
対象範囲における変死者や迷子の年齢、衣服の特徴等を記した高札を掲げた場所。
 
文政江戸朱引図と現在の地図

江戸の市街地拡大および土地利用状況
江戸市内土地利用状況

近世以前の人口想像図(全国)
近世以前の人口想像図

本郷かねやす   目黒不動尊
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」
説明板によると『享保15年(1730)大火があり防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、それからの中山道は板や茅葺きの家が続いた。』その境目にあるこの店が上記の川柳に詠まれたもの。本郷三丁目交差点角
  目黒不動尊(泰叡山瀧泉寺)
大同三年(808)慈覚大師円仁(えんにん)の開創と伝えられる。
江戸五色不動の一つで、富くじの『江戸三富」の一つでもあった。江戸の庶民が日帰りで行ける人気の景勝地でもあり信仰と行楽を兼ねた人々で賑わった。そのため町奉行の警察力が必要となった。JR「目黒」駅より徒歩13分

御府内について
「朱引図」では外側が御府内となりますが、一方で御府内とは江戸市中のことで、つまり町奉行の支配内という考えからすると内側の墨引きが御府内と言うこともいえるので、この違いははっきりしません。


「かねやす」
「兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨き粉を売り出し大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった」そうですが、現在は衣料雑貨店になっているようです。
1818年の朱引き範囲とかねやすの位置を比べても80年程度で急速に拡大していったことが分かります。


 

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