仇討ちは一回勝負!
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やっと巡り会えた敵(かたき)に逆に殺されても(返り討ち)勝負はその場で完結した。仇討ちされた側が今度は討ち手を敵にすること(重敵:じゅうがたき
あるいは復敵:またがたき)は禁止された。 |
条 件 |
武士であること。町人は不可。 |
目上の者の敵(かたき)を目下の者が討つこと。
この逆は「逆敵討」として禁止された。
親←子 兄←弟 祖父母←孫 叔父←甥 夫←妻
家来 門弟 朋友 義理による他人
関係の濃い順の縁者が討ち手となる。(肉親がいるのに家来や門弟が討つことは出来ない) |
手 順 |
主君の許可を受ける。(効力は領内のみ) |
領外の場合は、主君より幕府の三奉行へ敵討ちを許可した旨を届け出る。
幕府はしかるべき帳簿にこれを記載する。
仇討ちの免状に関しては諸説あり、発行されたどうかは定かではない。 |
敵を捜し仇討ちの旅に出る。
名誉回復のため仇討ちが成就するまでは帰れない、また、その間藩を離れるので知行はもらえない。 |
みごと仇討ちを果たした場合、検視役人に登録済みである旨を告げる。
役人は登録先へ照会して、偽りがないと分かれば解き放された。 |
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西早稲田三丁目付近 高田馬場跡
馬場とは馬術の練習場のことで流鏑馬(やぶさめ)なども行われて、将軍もご覧になった。
この一角で堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の仇討ちの助太刀をしたとされる。 |
堀部武庸加功遺跡の碑 水稲荷神社境内 |
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仇討ち(あだうち)は
敵討ち(かたきうち)とも意趣返し(いしゅがえし)
ともいう。
敵側は敵持ちという。 |
助太刀に関して
討ち手本人同様、助太刀もあらかじめその旨を登録しておかなければならなかったので、その場でいきなり助太刀に加わると言うことは出来なかった。
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女敵討ち(めがたきうち)
妻が不貞をを働いた場合、夫が妻とその相手を討ち果たすこと。 |
仇討ちの風習は明治になってからもしばらくやまなかった。明治六年(1873)太政官布告により禁止されたが、全面的な禁止令は明治十三年になってからである。 |
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