ビバ!江戸
江戸が生まれて 50年以上、大川(隅田川)に橋はなかった!

1603年の徳川幕府成立以来、最初に架けられた橋は両国橋で、万治三年(1660)の架橋。
架けられなかったのは幕府の軍事防衛上の理由から、架けられた理由は明暦三年(1657)江戸最大の火事の際、逃げ道がなく多くの人が亡くなったことからといわれている。


江戸の大川(隅田川)の橋


隅田川に橋の架かった年代

江戸時代、大川に架かる橋は四本。
両国橋 万治三年(1660)架橋
新大橋 元禄六年(1693)架橋
永代橋 元禄九年(1696)架橋
大川橋 安永三年(1774)架橋
通行は有料。(武士は無料)
いずれも2文 橋の管理や修繕に使われた。
 深川の文(ふみ)には二文添へてやり
深川のなじみの遊女に出す手紙を、使いの者に駄賃とは別に二文の橋銭を持たせてやる。深川=永代橋

両国橋の橋名は武蔵の国と下総(しもうさ)の国にまたがり、架けられた橋であることから名付けられた。
 なお、享保4年(1719)本所・深川は町奉行所の支配下となる。

その他の本所・深川への行き来は「渡し船」を利用した。

御入用橋
城郭門に架かる橋
・市街地の主要な橋
幕府の官費で維持をした
組合橋
武家、寺社、町々がそれぞれ組合を作り維持をした
一手持ち橋
個人で架橋し維持をした
隅田川の橋の図

大はしあたけの夕立 歌川広重―名所江戸百景
「大はしあたけの夕立」
この絵は、手前日本橋浜町より向う深川六間堀に架けられた新大橋で、にわかに降り出した夕立に慌てふためく人々を描いている。
あたけ(安宅)とはこの絵の対岸やや上流一帯(雨に霞むシルエットの森)のことで、幕府の御用船安宅丸の船倉があったことから、こう呼んでいた。
オランダ印象派画家ヴァン・ゴッホは、この絵から大きな影響を受け、この絵を油彩で模写している。

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千住大橋(1594年架橋)は除く。またこの橋以降の下流を隅田川とさせていただきます。

新大橋
橋の名の由来は両国橋は最初大橋と呼ばれていたことから。
オランダの印象派画家ゴッホに影響を与えたと言われる歌川広重の「大はしあたけの夕立」は有名。(この頁下段)
「有難や いただいて踏む 橋の霜」芭蕉
新大橋完成時の喜びを詠んだ句。当時、この橋の東詰にあった芭蕉庵に住んでいた。

永代橋
将軍綱吉の50歳のお祝いに架けられた。
当初は官製の橋であったが、老朽化した橋の架け替え費用がだせず廃橋にするのを市民の存続の申し立てで以後町がかりとなった。
文化四年(1807)深川八幡の祭礼の混雑で落橋、死者千五百人を出す。

大川橋
明治八年の架け替え時に吾妻橋が正式な橋名となる。

大川端(おおかわばた)
隅田川の吾妻橋(大川橋)より下流の右岸一帯、特に両国橋から新大橋までの称。広辞苑より

 

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