霊岸島之碑



越前堀公園内


説 明 板

霊岸島の由来
当地区は、今から三百七、八十年前、江戸の城下町が開拓される頃は、一面の沼地葭原であった。
寛永元年(一六二四)に、雄誉霊岸上人が霊岸寺を創建して、土地開発の第一歩を踏み出し、同十一年(一六三五)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。
邸の北、西、南三面に舟入堀が掘られて後に越前堀の地名の起る原因となった。
明暦三年(一六五七)の江戸の大火で、霊岸寺は焼失して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町町が、替地として集団的に移ってきた。
明治大正年間には富島町、浜町、四日市町、塩町、大川端町、川口町、長崎町、霊岸島町、銀町、東港町、新船松町、越前堀、南新堀の十三町に分かれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地、倉庫地帯として下町商業の中心であった。大正の大地震により全部焦土と化し、昭和六年七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一、二丁目・霊岸島一、二丁目・越前堀一、二、三丁目と改称され、更に昭和四十六年住居表示制度の実施により新川一、二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐しい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
昭和五十二年三月
霊岸島保存会
 
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