ビバ!江戸
本所・深川の竪(たて)に流れるのが横川で、横に流れるのが竪川とはどうして?
本所(墨田区)・深川(台東区)に流れる竪川・横川の川の名は地図の南北を上下にして見るのではなく、江戸城から見て竪なのか横なのかを見ている。江戸城が中心。右図参照

江戸の川・掘割


堀割全体図
江戸の川・掘割PDFファイルはこちら
※地図(PDF)内の川の位置、川の名称は次を参照しました A:江戸東京重ね地図 株式会社エーピーピーカンパニー(安政三年 1856)
※下記表の川の説明は次を参照しました B:「川の地図辞典 江戸・東京/23区編」菅原健二著なお、この書では基本的視点を一八八〇年代(明治一〇〜二〇年頃)としています。
※内濠・隅田川以外は線の幅を一定としたため、河川の大小は反映していません。
※大名屋敷の周りを囲んだ水路等は省略しています。


竪川横川

 
隅田川 江戸・東京を代表する川。かつて隅田川は荒川の下流の称であったが、現在では荒川の分流となってる。川の呼名は流れる地域によって異なり、千住より上流は荒川、隅田村(現・墨田区墨田二〜五丁目、堤通二丁目ほか)辺りでは隅田川、浅草の辺りでは浅草川、駒形の辺りでは宮戸川、両国橋の辺りから下流は大川などと呼ばれた。
◆隅田川東側(向島・本所・深川)◆                        〔 〕は編集者記入

曳舟川
ひきふね

葛飾区から墨田区に入った葛西用水の流れは曳舟川と呼ばれる。請地村(向島四丁目、京島二丁目)、須崎村(向島一丁目)などを経て小梅村(向島一丁目と押上一丁目の間)で大横川に合流した。

西井堀
にしい
葛西用水から亀有村(亀有三丁目6番の地先)で分流し、砂原村(西亀有二・三・四丁目)、上千葉村(西亀有二・三丁目、堀切六〜八丁目)、下千葉村(同五〜八丁目)を流れ、堀切村(堀切二・四丁目)で古綾瀬川(現・綾瀬川、荒川)を横断して、現在の墨田区に入る。隅田村(現・墨田区墨田二・五丁目)から寺島村(堤通一・二丁目、墨田一丁目、東向島一・三丁目)、須崎村(向島一・二・五丁目)を流れて、中ノ郷村・小梅村(向島一丁目)で分流し北十間川と隅田川に合流した。

古川
ふる

隅田川から寺島村(堤通一丁目)と須崎町(向島五丁目)との境付近で分かれて南東に流れ、曳舟川と交差(押上二丁目22番の地先)し、押上村(押上一丁目48番の地先、十間橋際)で北十間川に合流した。

源森川
げんもり
隅田川から新小梅町(向島一丁目1番)と中ノ郷瓦町(吾妻橋一丁目24番)の間から東に入る堀。
北十間川
きたじっけん
墨田区を北西から東南に向かって斜めに流れる。源森川に続き、請地村(現・墨田区押上、文化)と柳島村(同業平)の間を東に流れ、亀戸村(立花三丁目と江東区亀戸八丁目の間)で旧中川と合流した。
北割下水
きたわり
下谷台地に接した沖積地の宅地化を促進するための「水抜き」用排水路で、本所北新町と本所若宮(本所二丁目内)から東に流れ、大横川と交差(本所四丁目)し、柳島横川町(横川五丁目)で横十間川〔地図では十間川(天神川)〕に合流した。
南割下水
みなみわり
割下水とは、道路の中央を流れる堀割の意味で、用途は「水抜き」排水のためである。堀の両側に道路があり、道路が二分されたような形からきた俗称である。横網一帯(横網一・二丁目)にあった幕府の御竹蔵(元御材木蔵)〔御竹蔵はのち猿江町に移り、そのあとはAでは御米蔵となっている〕の東側、本所亀沢町一・二丁目(亀沢一丁目内)の間から東に直線に流れ、大横川と交差(亀沢四丁目)し、柳島町(錦糸四丁目)で横十間川〔同上〕に合流した。
十間川
天神川
南十間川
北十間川から柳島村(現・墨田区業平五丁目と江東区亀戸三丁目の間)で分かれて南に流れ、竪川・小名木川・境川・仙台堀川と交差し、石小田新田(現・江東区東陽七丁目)で西に折れ、豊住町(東陽五・六丁目の間)で平野川(現・大横川)に合流した。〔Bでは十間川・南十間川の記載は見受けられない。現・横十間川のこと。天神川は亀戸天神の傍らを流れるのでその名がついたと書かれている。〕
大横川
おおよこ

北十間川から中ノ郷八軒町(現・墨田区吾妻橋三丁目)と中ノ郷村(業平一丁目)で分かれて南に流れ、竪川、小名木川と交差して久永町(現・江東区木場四丁目)と石島町(千石一丁目)の間から仙台堀川を横切り平野川へつながる。昭和三九(1964)年の河川法の改正で平野川・大島川も大横川となる。

竪川
たて
隅田川から本所元町(現・墨田区両国一丁目)と本所千歳町(千歳一丁目)の間で分かれて東に流れ、亀戸村(江東区亀戸九丁目と大島九丁目との間)で中川(旧中川)と合流した。
五間堀
ごけん
六間堀から松井町三丁目(現・墨田区千歳三丁目)と西森下町(現・江東区森下一丁目)の間で東に分流し、東森下町(森下一・二丁目)を流れて東元町(森下三丁目)で堀留っていた。川幅が五間あるのでこの名がついた。〔五間:約9m〕
六間堀
ろっけん

竪川から本所松井町一丁目(現・墨田区千歳二丁目)と同二丁目(同三丁目)の間で南に分かれて流れ、西元町(現・江東区常盤一丁目)と常盤町一丁目(同二丁目)の間で小名木川に合流した。川幅が六間あるのでこの名がついた。〔六間:約11m〕

小名木川
おなぎ
隅田川から深川西元町(常盤一丁目1番)と深川西大工町(清澄一丁目7番)の間で分れて東に流れ、小名木村(大島九丁目1番)と又兵衛新田(東砂二丁目14番)の間で旧中川と合流した。家康が江戸入り直後に沿海運河として形成させたのが小名木川である。関東で一番の製塩地帯=行徳を水路で江戸城と直結させ、安定した輸送路を確保することを目的にして建設されたといわれる。
境川
さかい
中川から中田新田と八郎右衛門新田の間(東砂五丁目)で分れて西に流れ、大塚新田・亀高村・治兵衛新田・久右衛門新田(東砂、北砂)と砂村新田・永代新田飛地(南砂)の間を流れ、横十間川を横切り、八右衛門新田(扇橋三丁目)で小名木川に合流した。川筋は、ほぼ現在の清洲橋通りにあたる。
砂村川
すなむら
横十間川から平井新田(南砂二丁目8番・同9番の間)で分れて東に流れ、砂村新田(南砂六・七丁目)に流れていた。〔Bでは元〆川(もとじめ)となっており、ABに違いが見られる〕
仙台堀
せんだい
隅田川から清住町(清澄一丁目)と深川佐賀町(佐賀二丁目)との間で分流し東に流れて、海辺新田(千石三丁目)と石小田新田(東陽七丁目)の間を経て横十間川に合流した。下流では三十間川とも呼ばれていた。
油堀
あぶら
隅田川から佐賀町一丁目(佐賀二丁目)と同二丁目(佐賀一丁目)の間で分流して東に流れ、大島川西支川〔油堀西横川〕、平久川〔Aでは三十間川となっている〕と交差して鶴歩町(木場三丁目)と島田町(木場二丁目)の間を流れて大島川東支川を横切り、木場堀(木場五丁目)に注いでいた。〔Aでは油堀は富岡八幡辺りでは十五間川となっている〕現在は埋立てられ首都高速9号深川線が走る。
油堀西横川 仙台堀川から今川町(佐賀二丁目)と永堀町(福住二丁目)の間で分れ南に流れる。油堀川を横切り、富吉町(佐賀一丁目、永代一丁目)・諸町(永代一丁目)の東側に沿って流れ、相川町(永代一丁目)と中島町(永代二丁目)の間で大島川(現在の大横川)と合流して隅田川に注ぐ。
平野川
ひらの
大横川の流れが茂森町(木場四丁目)と豊住町(東陽六丁目)の間を南に流れて、木場町(木場五丁目)と洲崎町(東陽三丁目)の間で西に折れ、入船町(木場二丁目)に続く。その後、数矢町(富岡二丁目)から西に大島町(永代二丁目)へと流れる。大島町から先は大島川と名を変え、隅田川に合流した。
大島川
おおしま
木場五丁目3番の地先から永代一丁目7番の地先を流れて隅田川に注ぐ。
◆隅田川西側◆
21 山谷堀
さんや
今戸堀ともいう。音無川(石神井用水)の下流にあたる。現在の日本堤消防署(千束四丁目1番)から東南に流れ、待乳山聖天(浅草七丁目4番)の北を経て今戸橋(浅草七丁目4番の地先)先で隅田川に合流した。山谷堀の南岸には、日本堤が築かれて荒川の洪水が浅草方面に及ぶのを防いでいた。今戸橋から吉原遊郭(千束三・四丁目)までを、俗に土手八丁とも呼んでいた。
22 新堀川
しんぼり
千束堀川〔Aでは千束堀川の名も川筋もない。ただし、Aでは例外として川筋は記載しておいた〕の下流部で、金竜小学校(千束一丁目9番)の際をまわり、松が谷・元浅草・三筋・鳥越と西浅草・寿・蔵前との境を南に流れ、浅草橋三丁目18番と同19番の間で鳥越川と合流していた。
23 藍染川
あいぞめ
染井霊園(現・豊島区巣鴨五丁目)付近の長池を水源とする谷田川の下流部にあたる。本郷台と上野台の間の谷筋を流れて不忍池に注ぐ。
24

忍川
しのぶ

不忍池を水源として東南端の上野黒門町(現・台東区上野二丁目13番)から東に流れる。下谷西町(東上野一丁目12番)付近で南下し、西町と竹町の間(春日通り筋)を東に流れて、小島町(小島町二丁目)の西側で三味線堀に注いでいた。川の下流は三味線堀から、さらに鳥越川が続いていた。
25 鳥越川
とりごえ

三味線堀に続き、西鳥越町(鳥越一丁目8番)の地先で東に流れを変え、元鳥越町・福富町(現・蔵前橋通り)を流れる。向柳原一丁目(浅草橋五丁目24番の地先)で南に流れを変えて、またすぐ東に折れて流れて須賀橋(蔵前一丁目5番の地先)の先で須賀堀に続いていた。〔Aの地図には「須賀堀」の名称は見当たらない。Bの須賀堀の説明によると、『鳥越川の下流にあたり、御蔵前片町(旧御蔵、後の高等工業学校の敷地、蔵前一丁目)と須賀町・瓦町(柳橋二丁目)の境を流れて隅田川に注いでいた。江戸期には、俚俗に「おいてけ堀」とも呼ばれていた。』とある〕

26 神田川
かんだ
江戸・東京の都心部を流れる一級河川。家康の江戸入り直後から計画された江戸の上水道に利用され、当面の給水地域の神田の名をとって神田上水と呼ばれた。かつては文京区関口二丁目の大滝橋より上流を神田上水、大滝橋下流からJR飯田橋付近の船河原橋までを江戸川、下流は中世までは平川、江戸期になって神田川と呼んでいた。昭和三九(1964)年の河川法の改正(昭和四〇年施行)で、この水系全体を神田川と総称するようになった。三鷹市井の頭公園の井の頭池を水源とした。〔なお、Aでは飯田橋辺りから上流は江戸川と記載されている〕
27 藍染川
あいぞめ
新石町(現・千代田区内神田三丁目ほか)を水源として東に流れ、神田鍛冶町一丁目(鍛冶町二丁目)・紺屋町(岩本町二丁目)より神田富松町(東神田二丁目)に流れて、美倉橋の下流で神田川に注いだ。この水路が紺屋町辺りを流れるので藍染川の名がつく。
28 浜町堀
はまちょう
箱崎川〔Aには箱崎川の名は見当たらない〕から浜町三丁目(日本橋浜町三丁目)と蛎殻町二丁目(日本橋蛎殻町二丁目)の間で分れ北西に流れ、亀井町(日本橋小伝馬町19番の地先)で龍閑川と合流していた。明治十六(1883)年に水路が延長され神田川に合流した。
29

龍閑川
りゅうかん

鎌倉河岸の東端、(外濠から西今川町(現・千代田区内神田二丁目)と本銀町一丁目(現・中央区日本橋本石町四丁目)の間で分れて東北に流れ、亀井町(日本橋小伝馬町)で浜町川と合流していた。
30 東堀留川
ひがしほりどめ
小網町一丁目と同二丁目の間(日本橋小網町9番)から分れ、北西に曲がり堀江町四丁目から同一丁目(日本橋小舟町)に沿って入り堀留町二丁目地先(日本橋堀留町一丁目2番)で留っていた。
31 西堀留川
にしほりどめ
本船町(日本橋本町一丁目10番)と小網町一丁目(日本橋小網町19番)の間から北西に向かい、堀留町一丁目(日本橋本町二丁目7番)の手前で西に折れて室町三丁目(日本橋本町二丁目3番)で留っていた。堀留の場所は「浮世小路」と呼ばれ、その先には通町筋(現・中央通り)がある。また堀の北側には本町通りが平行して走っていた。この二本の通りは江戸のメインストリートで、伊勢町堀は日本橋地域のほぼ中心に位置していた。
32 稲荷堀
とうかん
箱崎川から蛎殻町一丁目(日本橋蛎殻町一丁目)と小網町三丁目(日本橋小網町)の間で分れて北西に流れ、東堀留川に通じていた。堀の名は、安藤対馬守の屋敷地の西方に稲荷社があったので、稲荷の音読「とうかんぼり」と呼ばれていた。また、土居甲斐守屋敷前を流れていたので土井堀とも呼ばれた。
33 道三堀
どうさん

内濠と外濠を結ぶ水路。和田倉門際から永代通りの北側に沿って流れ、大手町二丁目6番の地先で外濠に合流する濠である。堀の南側に今大路道三の屋敷があったのでこの名がついた。

34 新川
しん

亀島川から福富町と霊岸島町の間(新川一丁目3番の地先)で分れて東に流れ、大川端町地先(新川一丁目32番の地先)で隅田川に合流した。両岸の河岸には、「下り酒」を扱う問屋商人が多く、新川一帯は酒問屋の街として知られていた。

35 越前堀
えちぜん
隅田川から霊岸島銀(しろがね)町二丁目と越前堀二丁目の間(新川一丁目32番)で分れて西に流れて霊岸島銀町一丁目(同一丁目13番)で南に折れる。さらに東湊町二丁目(同二丁目12番)で東に折れて、新船松町(同32番)地先で隅田川に合流していた。〔Aでは★の場所に越前堀の名があり、Bとは堀の位置が異なる〕
36 楓川
もみじ/かえで
日本橋川から本材木町一丁目(日本橋一丁目)と兜町(日本橋兜町)の間で分れて南に流れ、本材木町三丁目(京橋三丁目)地先で京橋川・八丁堀・三十間堀と合流していた。この川は、天正一八(1590)年に家康が江戸入りした当時の、江戸前島東側の海岸線にあたる。
37 八丁堀
はっちょう
楓川と京橋川との合流点(新富一丁目地先)から東に流れて本湊町(湊一丁目)地先で亀島川〔Aでは越前堀〕に合流していた。
38 京橋川
きょうばし
外濠川〔Aでは御堀となっており、外濠川の名称は明治に入ってからのもの。外濠川はBの説明では今川小路堀留(飯田川の北端の堀留ったところ)から下流で汐留川(Aでは御堀)に合流(JR新橋駅手前200m辺りのJR線上)するまでの称とある〕から北紺屋町(八重洲二丁目)と南紺屋町(銀座一丁目)の間で分れて東に流れ、白魚橋先で楓川、八丁堀、三十間堀と合流した。
39 三十間堀
さんじっけん
楓川と京橋川・八丁堀との合流点(銀座一丁目26番の地先)から南に分れ、真福寺橋の先(銀座一丁目25番、京橋プラザ辺り)で右に折れて西に流れる。木挽町一丁目(銀座一丁目)地先で左に折れて南に流れて南金六町と木挽町七丁目の間(銀座八丁目)で汐留川〔Aでは御堀〕に合流した。川幅が三〇間あったのでこの名がつく。三十間堀は、家康が江戸入りした当時の江戸前島東側の海岸線で、この沖合に護岸用の石を並べ、その東側に埋立地を造成していった。楓川同様に海岸線を埋め残してつくった水路である。
40 鉄砲洲川
てっぽうず
隅田川から本湊町(湊二丁目)と船松町(湊三丁目)の間で分れて西に入り、新湊町四丁目(湊三丁目8番)地先で南に折れて明石町(現・同)を流れて、新湊橋の先(明石町12番の地先)で築地川に合流していた。
41 築地川
つきじ
三十間堀の海岸側に位置する築地は、明暦三(1657)年の大火後に埋立てられた場所で、四つの地域が埋め残された水路=運河に囲まれていた。一つは現在の中央区築地一〜四丁目で、明暦大火後に横山町から移ってきた築地本願寺(京都西本願寺別院)や中央区役所などがある。二つ目は国立がんセンターや中央卸売市場などがある築地五丁目地域、三つ目が幕府の軍艦操練所などがあった築地六・七丁目、最後が浜離宮庭園である。
42 汐留川
しおどめ
外濠とともに、溜池の水の排水路としてつくられたのが汐留川である。潮の干満の影響を上流の溜池に及ぼさないように堰堤をつくり、海側の汐水を堰き止めたので、汐留川の名がついた。汐留川は虎ノ門の堰堤から流れ出る赤坂溜池の余水と外濠の流れが、幸橋門外から京橋区丸屋町(現・中央区銀座八丁目)と芝区双葉町(現・港区新橋一丁目・同東新橋一丁目)の間を東に流れ、浜離宮南門橋の手前で築地川を合わせて南西に折れ浜離宮庭園に沿って流れていた。
43 宇田川
うだ
桜川から大横町で分流し、宇田川町(新橋六丁目と芝大門一丁目の間)を経て新銭座町(東新橋二丁目)の南側を流れて、浜離宮庭園(中央区)の西南角辺りで海に注いでいた。
44 桜川
さくら
汐留川から新シ橋(西新橋一丁目と同虎ノ門一丁目の境)辺りで分流し、南に流れ愛宕下で「赤坂川★」〔Aには川名が見当たらないので赤坂川の説明は省いた〕を合わせる。その後真福寺、青松寺の門前(現・愛宕通り)を南に流れて、増上寺方丈(芝公園三丁目、御成門小学校)で東に折れて大横町(芝大門一丁目、日本赤十字社)で「宇田川」を分流する。
45 飯田川
いいだ
外濠と隅田川を結び、江戸の外湊と内湊をつないでいた水路。神田川から分流し日本橋の下を通って隅田川に注ぐ。神田川からは三崎橋(現・千代田区三崎町地先)で分れて東南に流れていた。江戸城の北側、現在の九段南、大手町を流れ、中央区に入る。さらに一石橋、日本橋、江戸橋などを経て豊海橋先で隅田川に注ぐ。日本橋川の祖型であった平川は、元和六(1620)年の〔天下普請の〕工事で、本郷台地を掘割って隅田川に通じる放水路(仙台堀、現在の神田川)が開削されたが、この時三崎橋から九段堀留間が埋立てられた。明治三六(1903)年に水路として復活〔再び神田川から分流〕したが、昭和三九(1964)年の河川法改正で日本橋川となる。
46 神田上水 大滝橋(現・文京区関口二丁目27番の地先)に大洗堰(ダム)を設けて水を分け、白堀(開渠)で関口水道町(水道二丁目)、小日向水道町(水道一丁目)を流れて、牛天神下(春日一丁目)から水戸藩邸内(後楽一丁目、小石川後楽園・東京ドームなど)を流れた。そして、水戸藩邸の東端から暗渠〔地図点線部分〕となって神田川を懸樋(かけひ)で渡り(最初の懸樋橋を水道橋と称した〔水道橋という名の語源〕)、小川町一帯の市街地に給水した。さらに神田橋上流部を伏樋でくぐり、日本橋地区に給水した。それは改良水道が敷設される明治三四(1901)年まで使用された。〔伏樋(ふせどい):地中に埋めた樋〕
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